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診断時:57歳
インタビュー時:60歳(2008年2月)
診断当時は、企業の管理職として多忙な日々を送っていた。妻との間に子どもが3人。首都圏在住。吐き気、足のしびれ、腰痛など、2年近く体調不良を訴えて複数の医療機関を受診したが診断がつかず、2005年にようやく前立腺がん(ステージIV)の診断を受けた。ホルモン療法にて体調が改善したが、2年余りで再びPSA数値が上昇しつつある。
語りの内容
あの、これ、よく(ある)ゲシュタルトの図ですね、「ルビンの壺」なんですけど。
―― 顔と壺に見えるやつですね。
うん、うん、うん。で、えーと、まあ、えー、まあ例えば顔の部分がね、がんになってとても今大変だと、命がないと、命がないということだと思うんですけど、だけど、もう片方ね、えーと、中から見たら、これ壺なんですけどね、いいこともあったわけです。で、僕は、えーと、今は、とても幸せなんですよね。うん。なので、えーと、がんになって気付いたことがいっぱいあるし、えー、まあ、あの、がんが分かってから2年半、ものすごく幸せでした。なので、まあ悪いことばっかりじゃないよということを、前回はね、たまたまウイスキーの話で、高級ウイスキーがあって半分ウイスキーが残っていますと。それをもう、あのー、ああ、もう後には半分飲んじゃって、後半分しかないかと思うかね、まだ半分あって飲めるかって思うかでね、全然違うっていうふうに、ご説明、そういう説明だったんですけど。
まあ見方でね、つまり、えーと、悪いことばっかりじゃなくて、いいこともあると。ちょっともう、ちょっと目を開いて見てくださいと。えーと、いいことを、どんないいことがあったかね、数を上げてみることが大事だと思いますね。まあ例えば家族との絆はものすごく強くなりました。うん、あのー、だから、すごく濃密な時間でしたね、この2年半っていうのはね。あのー、まあ結婚するときに若い方は一緒に、家族と一緒にというか、まあ私であれば家内と一緒にね、過ごすことが楽しくて、もう24時間一緒にいられたらいいねっていうことで結婚するわけですよね、普通は結婚するときにね。つまり時間を共有するっていうことだと思うんですけど。まあ私たちの年代はサラリーマンとして、そのまあ高度成長の後期にね、とにかく必死になって働くって。で、会社入ったときには、えー、まあ重役の方たちはね、黒塗りの車で出勤して、いつかは自分もそうなるかみたいな、なりたいなみたいな感じでしたよね(笑)。
で、えーと、家庭のことは当時は女性に任せるんですよね、そういう文化的な背景があったと思いますけど、今やそうじゃないですよね。うん。で、その中で、自分は自分なりに自分の役割を、まあ一生懸命働くこと、家は家内が守ってくれることっていうことで過ごしてきたわけですけど。でも、心の片隅ではいつもその、家内はどう受け止めてくれたか分かんないけども、自分はその心の中ではね、申し訳ないなという気持ちもあったんです。まあその割には、随分好きなことをやっていたんじゃないって、今でも言われちゃうんですけど。あの、すみません(笑)、本当に好き勝手なことをやっていましたけどね。でもね、心の隅にいつもそのことが残っていて、いろんな勉強をその後していく中でね。こんな、あるとき、あの、研修の中でね、ワークをこうやった経験があるわけですね、もしもあなたが、あと、1年しか命がなかったとしたら何を大切にしていきますかって、何をやりたいですかって、何を一番大切にしますかって考えるわけですね。
まさか、同じ問いがですね、がんにかかったときに、いきなりそういうものを問いがね、問いそのままのシチュエーションになるとは思わなかったですけども。でも、がんでいきなり私の場合は告知されました。告知されたんですけども、そのときに何をしようかということは、もうすぐ決まりましたね。だから、ある意味そのえーと、混乱はなかったっていったらあれなんですけども、それは、そういうある意味では、自分が過ごしてきた経験の中でそれが1つ幸いだったというか、まあリソースだったんですね、自分を支えるためのね。えーと、で、そのときに思ったのは、家族が大事なので、これからは家族を、まあ残った時間、前立腺の場合は幸いといったら、同じ病気にかかって悩んでいる方、今の今ね、あのー、なかなかそれを受け止められないと思うんですけども、比較的予後がいい。
それから、進行がそれほど早くはないというね。いろいろもっと厳しいがんに遭われる方に比べたらね、良かったなっていうか、ありがたかったなって。時間があったことがね。で、その時間を過ごす中で、まさにその家族との時間を大切にするっていうことに集中できましたのでね。だから、過去数十年家内と家族と一緒でしたけども、そのときの時間よりもその2年半はね、もう数十倍近く濃密な時間を過ごすことができましたね。そういう意味ですごく幸せでしたよね。
インタビュー02
- がんだとわかる約2年前から胃のむかつきなど、身体からのメッセージに気づいてはいたが、どの病院でも異常は見つからなかった
- 症状はひどくなり、しびれや痛みも出てきて、会社に行けなくなるほどだったのに、どの病院でも「わからない」と言われてしまう
- 直腸診を受けた後に、生検をしないと確定診断は出来ないけれど、触った感じで表情が厳しい、立派ながんだと言われた
- 担当していた心理学の研修を通じて幸か不幸か、自分にとって大切なものが何かよくわかっていたので、気持ちを切り替えるようにした
- 告知を聞いたときは一人だった。家族は後から医師に呼ばれて診断を聞いたが、家内がとても明るかったので気持ちは楽だった
- 5年生存率10%という数値は統計にすぎない。その10%に入ればいいと自分は受け止めた。だけど、こうした告知の仕方はいかがなものかと思う
- 言い出しにくかったが、フィーリングの合う医師に主治医を替わってもらった。自分の考える治療法や話を聞いてくれる医師を選ぶことが大切だと思う
- 自分の場合は病期がステージ4で、手術や放射線療法はできないので、がんの勢いを落とすためにホルモン療法を使った
- ホルモン療法で胸が出て女性のようになり、ジムで裸になってシャワーを浴びるときに男性の目が気になり、プールにも行きづらい
- 統合医療の医師に第二の主治医としていろいろ相談している。いつも触診があり、話をよく聞いてくれるのが素晴らしい
- 再燃してPSAが100を超え、そのデータの重みから気持ちも重くなるけれど、家族が笑顔になるように助けてくれる
- 再燃状態にあるけれど、骨折に気をつけながら慎重に体を鍛え、数値が高くても元気でやっている仲間の存在を支えに頑張ろうと思う
- 末期の患者にとっては食事療法はたくさんあって迷うし、作る人にも負担がかかるので、がん患者のためのレシピ集があったらいいと思う
- 午後10時から午前2時までの細胞が再生される時間帯に睡眠をとることで免疫力が高まるというが、もともと夜型なので直すのが難しい
- ママチャリをマウンテンバイクに乗り換えて、近所の公園のグラウンドを走って鍛えている。運動すれば筋肉もつくし達成感が得られる
- 免疫細胞療法を受けてみたいが、ワンクール100万以上かかる。家族に何も残せないのに、わずかなお金すら自分のために使わせるのは、と悩む
- 進行がんの場合は特に、患者サポートの一つとして、経済的なアドバイスが出来る専門家が医療チームにいてくれるといいと思う
- 中小企業だったため休職期間が短く、退職後は手当を受け取れなくなった。末期がんで、闘病が長く続くような場合には社会的にサポートしてほしい
- ホルモン療法が著効した時期、パートででも仕事に戻りたかったので復職を職場に交渉したが、辞めて欲しいと断られた
- NPOの仕事を一旦は辞めたが、周りの支えがあったのと、キャリアコンサルタントとして成長し続けたいという思いから再開した
- 末期がんの診断をきっかけに、家族との時間を大事にしようと思った。幸い前立腺がんは時間があるため濃密な時間を過ごすことができている
- 病状と年齢のこともあって、夫婦関係(性生活)は棚上げになっているが、時間を共有することを目的に結婚したのだし、別にどうっていうことはない
- 同居中の実の両親が、たまたま不在で一緒に医師の説明を聞けず、後から聞くことになり、「あの時は随分疎外感を味わった」と言われてしまった
- 子どもには財産は残せないが、今、自分が幸せだということを伝えたい。恰好よくはないが、悩みながらも明るく生きる自分の姿が、唯一残せるものだと思う
- 末期がんであっても、捨てたものじゃない。幸せになる種はたくさんある。気持ちを切り替えることが大切だと思う