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診断時:47歳
インタビュー時:63歳(2008年10月)
九州地方在住。1992年の夏、進行した前立腺がんと診断された。当時は、単身赴任中だったため、家族のいる故郷に戻って、治療を受けながら58歳まで仕事を続けた。最初は、家族にだけ、がんであることが告げられていた。ホルモン療法、化学療法、放射線療法、尿路変更術、緩和治療を受け、現在に至っている。診断当時小中学生だった子どもたちは、現在独立し、夫婦二人暮らし。
語りの内容
それで、入院して、そのときは、えー、まだ、前立腺がんとは告げられませんで、要するに、あの、腫瘍があると、えー、要するに、検査しなさいということで、検査しまして、大学病院にその検体を持って行って、悪性とあとで分かったんですが。最初は、家族には、「良性であって、進行、あの、手術をする必要はありません」ということを、あの、聞きました。それは、家族からも聞いたし、先生からも最初聞きました。
で、検査終わったあと、家族には、余命5年6年と言われました。そのときに、先生の話では、まあ、悪性の進行性であって、それで、骨に転移して、転移するだろうというようなことで、今になっては、あの、思われます。えー、ちょうど、そのときが、歳として47歳。今、現在、63歳で、えーと、16年も経っています。
で、今まで、16年の間に、最初、入院したときには、○(地元)の総合病院で、家族全員…集まってきました。(涙声)……それで、一応、わたしも何ごとかと思って、ま、聞いた、あとで聞いたんですが、もう、あと余命5~6年ということで、兄弟全部集まったみたいです。それで、病院で、最初は化学療法、ホルモン療法いろんなことしました。それで、ホルモン療法は長く続いたせいで、若干、あの、おっぱいが大きくなりまして、ちょうど、そうですね、娘が中学のときのおっぱいぐらいの大きさだったでしょうか。あの、わたしのおっぱいを見て、娘の言うことには、「わたしのブラジャーを、貸そう…貸そうか」ということがありました。(涙声)
そのあとに、一応、わたしも追求した結果、あ、悪性の進行…、悪性であって、進行性であるということで、えー、そのとき分かりました。ま、そんときは、もう、自分で、一応、あ、仕方ないと、まあ、なったからには、もうどうしようもできんから、っていうことで、一応、先生の言いなりに、ずっと治療続けました。
えー、そうしているうち、放射線治療、いろんな化学療法、ホルモン療法、それから放射線治療、そのあとに、えー、その時期に入院を14~15回しています、入院、退院を。ちょうど、まだ、子どもが中学校になった、長男がなったときですかね。で、わたしは、余命まあこれは5年6年ちゅうことで、収入がないということで、進学をあきらめて……(涙声)…長男のほうは就職のほうということになりました。で、長女は、一応、家庭の苦しさをわかったもんで、……奨学資金で、高等専門学校に行きました(涙声)。
インタビュー31
- 16年前診断を受けたとき、自分には良性だと伝えられていたが、家族には余命5,6年と告げられていた。最初の入院のときは家族・親戚全員が集まった
- 最初は2週間入院した。退院後、髪の毛が抜け始め、最後は剃ることにした。1年半治療したが、PSAが下がらなくなり、抗がん剤を中止した
- 診断から14年目に血尿が出て抗がん剤を始めたが、1年半で医師から「もう打つ手がない」と言われ、緩和ケアを選択した
- 前立腺の大きさが20倍になり、尿路(※)に障害が出て、痛みと血尿が止まらないので、尿路変更術をうけ、膀胱に尿が溜まらないようにした
- 尿路変更術を受けた後しばらくして前立腺から出血するようになり、今は週に1回輸血を受けている。それでも排尿の痛みを取るためには手術しかなかったと思う
- 58歳でリストラされて60歳で年金の半額をもらえるようになるまで、長男の援助をもらっていた。その2年間が一番苦しかった
- 妻とはいろいろ口げんかもしたが、そんなときに小学生だった娘が「好きで病気になったのではない」と言ってくれたのが嬉しかった。この夏、その娘に子供が生まれた
- 自分が入退院を繰り返し、将来的な収入がないため、息子は進学をあきらめて就職を、娘は奨学金で専門学校へ進んだ