月別アーカイブ: 2025年3月

障害ナースの語り

復帰後は夜勤をしようと思っていたが、半年で再発し治療に戻ってしまった。結果的に夜勤ではなくオンコールで仕事ができて良かった

(復職後いずれ)夜勤はやろうかなって思ってたんですね。だけれどもまさか復帰して半年で転移、再発をしてしまって、治療に戻るなんで思ってもいなかったので。復帰後1年になる前ぐらいには夜勤できそうかななんて、頭の中では計画はあったんですけれども。
やはり2回転移と再発っていうことがあったときで、そこを考えると、もう私の先はないんじゃないかとかって思ってしまう自分がいて。
結果的には今夜勤やってないので体は楽になったっていうか、夜働かない分仕事的には楽なんですけれども、私がいた部署は夜勤は救急外来の夜勤をやらなくてはいけなかったので。
病棟と違って救急外来に患者さんが来なければ本当にゆっくりご飯を食べたり、仮眠を取ったりとかはできるんですけれども、救急車がラッシュで来るときは食事も取れない、水も飲めない、トイレにも行けない。
もう気がついたら、空は明るくなっていたとかっていうような部署だったので、もうそれはちょっと無理であろうっていうのもあったので。
夜勤をするっていう意味では、病棟もそうなんですけどね、忙しいと本当に休む暇もなく、ガーッと流れてしまって、気がついたらもう朝の配膳の時間になってたっていうのもあると思うんですけど。
また違った意味で救急の患者さんなんかも忙しかったので、それはちょっと無理だろうって自分の中で思ってたので。もう夜勤免除されるっていうことは日勤常勤になるかパートになるかって思ってたんですけれども。
パートですとボーナスも出ないっていうのもあったので、日勤常勤っていう形ですとボーナスもものすごく少ないんですけれども、基本給は今までどおりで。
ボーナスはカットされちゃうけれども、もらえるっていう働き方もあるよっていうことで、それだったらそれでいいかなみたいな形で納得して働くようになりました。
今内視鏡センターで仕事しているので「呼び出し番」っていうのは持たせていただいています。緊急内視鏡があるときには駆けつけて検査をしてっていう介助に入るっていうことはやってますけれども。
そんなに24時間ずっと病院に待機してるわけではないので、内視鏡やりますよっていう形でコールが来たときだけ行って対応させていただくので、長くても8時間くらいで帰ってこられるときもあるので。
そういったところでは環境には恵まれているし、内視鏡の「呼び出し番」っていうときには手当もつくので、夜勤が削られた分その手当が少し入ってきてるので、経済的にはそんなに潤ってはいないんですけど、ちょっとよかったのかなって思いました。

夜とかも日勤が終わって次の朝までに、緊急で内視鏡しますよっていうときに呼び出されるっていう。なので拘束はされてるんですけれども、呼び出されなければ、別にそれまでなんですけれどもっていう形になります。
なので夜もいったんうちに帰ってきて、ご飯食べようと思ったら呼び出されてっていうこともときどきはありますけれども、別に呼び出された時間だけ仕事をすればいいので、終わった後は、別にうちに帰って寝たりとか、食事をゆっくり取ったりとかはできるので。
そんなに明日の朝までノンストップでっていうことは一度も体験したっていうか、経験したことないので、夜勤なんかは精神的にはちょっと拘束感はあるんですけれども、夜勤をしてるということに比べたら、
やはりもう体力的にはもう楽なので、そういった意味ではよかった、内視鏡センターで働けてよかったのかなって思ってます。

障害ナースの語り

自分は2日連続で休みを取れるシフトの組み方をされていたように思う。ただ休み希望は誰でも通りやすい職場だった(音声のみ)

これは実際に確認をしているわけではないので、私の憶測になってしまうんですけれども、ほかの同期のシフトと見比べたときに、例えばほかの同期は1日休みの回数が多くて。
その分日勤でしたり夜勤をやる回数、連続で勤務する回数が短いっていうのが割と多いような印象を受けるんですけれども。
私の場合は日勤がほかの同期よりも例えば1日でしたり2日でしたり連続し働く部分が多くても、休みが連続で取れる、2日間連続で取れるとか、そういうのがちょっと多いかなっていうような印象は受けてます。

(自分が)受 診をするときは、必ず希望休をもう出させていただいて、そこは必ず休めるようにっていうふうにはしてます。ただ割とほかをまだ私はそこまで知らないのでなんとも言えないんですけれども。
ほかの先輩を見てても、希望休として出したところは全部通ってるかなっていうような印象は受けます。

障害ナースの語り

職場復帰後から4年間は、職場が日中の勤務の間に2時間のリハビリの時間を確保してくれた。給料も半年くらいで普通に戻っていた

8時半から8時間体制だったんですけども、(職場復帰後は)病院が4年間、午後の1時から3時までの2時間をリハビリさせてくれたんです。その間、そうです。4年間です。
午前中を仕事してお昼を取ってリハビリして、また残りを仕事に戻る。そういう感じでやらせてくれたので、本当に、1スタッフというよりは0.5のスタッフでした。それからフルの時間になりまして、定年するまでずっと8時間労働してました。

私が希望したわけではないんですけども、整形外科の担当医がリハビリが必要っていうところを強調してくださったみたいで、復帰したときにはリハビリはするっていう体制でやってくれてました。
それを4年間続けさせてもらって、その後は自分でっていうことで。本当にいい環境を作ってくださったと思ってます。

給料は(休職して)休んでいる間は何割とかそういう感じだったんですけども、最初に復帰したときにすぐ100%ではなかったんですけども、8割くらいにはなってたと思います。
すぐ半年かそのくらいで普通に戻っているんですが、ただ基本給は足踏みしましたので同じ年代の方よりは少ないんですけども、なぜか普通に給料を(休職後も)開始できたという言葉のほうに近いと思います。はい。

障害ナースの語り

職場も車椅子の看護師は初めてで、何ができるか一緒に相談させてもらった。時間は時短勤務から徐々にフルタイムに戻していった

(職場復帰に関しては)もう今となると大変だったなとは思わなくて。仕事自体も、そんなにバリバリ患者さんを受け持ってっていう仕事ではなくて、やっぱり車椅子で、その看護師をするっていうところが、前例も全然ない中での復職だったので。
職場としてもどういう仕事が私にできるのかっていうのを、一緒に相談しながらさせてもらってた形で。本当に復職直後は午後の半日だけの仕事っていうのを1カ月ぐらい。だんだんと1日働くっていうふうに、まあ時短からだんだんフルタイムに戻してもらってて。
業務内容も座ってできるような電話対応だったり、入院患者さんのアナムネの聴取(情報収集)で、情報をいろいろ聞いたりとかそういうとこからやってたので。あんまり業務自体は体力使うような業務っていうのではなかったところも配慮してもらってたのと。
それでも仕事をやっぱり1カ月すると疲れちゃうので、逆に(術後の化学療法で)入院できる1カ月が休みっていうか、何かちょっと休憩みたいに思えて。
化学療法も気持ち悪くなったりしても寝てれば落ち着くしと思えば、こんだけ怒られずに寝てられるんだったら仕事も頑張れるかな、みたいなのもありまして。逆に仕事があったからそういうメリハリがつけれたし、体力的にもリハビリになってたし。
多分私あそこで仕事しなかったら、本当にずっと寝て過ごして、あんなふうに体力戻せなかったんじゃないかなとか思うので、そういう意味では、何かうまい具合のバランスで、できてたかなっていうふうには、今となっては思ってます。

障害ナースの語り

同期よりも夜勤が増えるタイミングが遅かったり、回数も最初は少なかった。疎外感を感じない配慮がありがたかった(音声のみ)

実際働く中で、その疾患を言ったことで特別な対応みたいなのは、ちょっとありまして。ていうのも、ほかの同期よりも夜勤に入る回数が増えるタイミングは少し遅かったりとか、あまりこう、体にいきなり負荷がかからないように、徐々に徐々に慣れていけるような環境っていうのを、シフト調整を師長さんがしてくださったりだとか。
本当にこんなに恵まれすぎっていいのかって自分自身笑ってしまうくらいなんですけれども、師長さん、主任さん関わらず、ほかの先輩も、事情を知らない先輩でも心配をしてくださって。

特段自分から何かそういうのをお願いしたわけではなくて、師長さんが配慮をしてくださって、今の看護師1年目の今だけでなくて今後も長く看護師として働くために、今負荷をかけ過ぎるのではなくて、徐々にこう慣れていって。
最終的に一人前を目指していけるほうが今後のあなたにとっていいと思うから、今ほかの1年生よりも少しこう負荷を調整しながらではあるかもしれないけれども、そういうふうにさせてもらってるよっていう話は、師長さんからしていただきました。

私自身、師長さんに感謝をしている部分が、まず素直に師長さんが考えてくださってることをお話してくださったっていうところと、すごく大きく制限をし過ぎるのではなくて、例えばですけど、夜勤を自立するまでの回数でしたりとか。
そういったところはほかの同期と変わらないんですけれども、自立をしてからの例えば1カ月に入る夜勤の回数が、ほかの同期が5回に対して私は3回とかそういう形で、私だけほかの1年生よりも遅く自立をしたとかっていうわけではなくて。
達成するべきところは同じような速度で達成しつつ、それをずっとこう続けていくのではなくて、続けられる範囲で、徐々に3回から3~4カ月後に今度4回に増えてみたりとかっていうような形で、ゆっくりゆっくりこう増やしてくださってたので。
特段そのほかの同期との疎外感みたいなのを感じることはなかったです。やっぱりそれを思えたのは、師長さんが、私の今だけじゃなくて今後のことを考えてくださったっていうのがしっかり分かったっていうのが、一番大きかったのかなって思います。

障害ナースの語り

明確な診断が出る以前は貧血だけでは休みづらい職場だったが、診断後はリーダーや夜勤の回数を減らしてもらった(テキストのみ)

正直な話、病院で働いてる看護師さんって、何かしらの病気を持ってる人が多くなるんですね。やっぱり30代以降になると。一緒に病棟で働いてた先輩たちも、抗がん剤をしながら働いてるとか、そういう先輩たちが多かったので。なので自分も診断がつく前にひどい貧血状態でも、勤務を休むという選択肢はありませんでした。
自分が勤務していた ICU(集中治療室)って確かに重症な患者さんも診るんですけど、実は一般病棟に比べて時間で上がりやすいっていうんです。8時間勤務だったら私は3交代だったので、8時半から働いて、引き継ぎやって17時には、ぴったり上がれるんですよね。
自分は仕事が終わり、次の準夜さんに交代できるんです。一般病棟だとそこからまだ延長して18時ぐらいまで働いて、病棟1周回っていろいろ雑務やって、18時19時20時とか、消灯の21時まで残ってる人が多いんですね。
でも私たちのICUは、ほんとにその8時間をしっかり働いて、もうそこの後は延長しないで帰るっていう、たまたまもしかしたら私たちの病棟がそうなのかもしれないんですけど、延長しないので。
一緒にICUで働いていた先輩たちも、抗がん剤治療をしながら働いているとか、そういう先輩たちが多かったので、働いてその後はもう完全に休みましょうっていう感じだったので、(貧血の数値も)確かに数値を聞いたら恐ろしい数値なんですけど、もうまひしてる考え方って言ったら変かもしれないんですけど。
もっとつらい先輩たちもいるから、自分がその値でも、抗がん剤でつらい思いしながら働いてる先輩より、自分が休むっていう選択肢にはなんなかったし、多分、師長さんたちもそういう考え方にはなんなかったのかなって、今、振り返れば思います。

(一方で、)診断が付いてある程度治療をやったら落ち着いたので、大体1~2カ月ぐらいで退院して病棟に復帰したんですけど、復帰した後は、病棟のほうも理解があったので、夜勤の回数を少し減らしてもらったりとか。
あとその頃リーダーをやってたんですけどリーダーの回数を少し減らしてもらったりっていう形で少し免除してもらって、かなり病棟的には師長さんもすごい、理解のある病棟で、やりやすかった感じですね。

障害ナースの語り

うつ病を伝えて就職したが、特に職場からの配慮は必要なかった。不規則な勤務でもとにかく仮眠でも睡眠をとれるように工夫した

(うつ病があると伝えて就職した精神科病棟でも、配慮は)特 にはされてなかったようには思います。夜勤回数もみんなと同じでしたし、勤務時間も同じでしたし。次の日休みっていうときには、眠剤を。
その頃は眠剤をちゃんと飲まないと駄目なのかなと思っていたので、次の日休みのときは眠剤を飲もうだとか。3交替勤務だったんで、日勤、深夜、準夜、早出、遅出っていう5つぐらいあるんですけど、「変則3交替」っていうのなんですけど。
例えばあるとしたら、仮眠室があって、日勤のあとに1時ぐらいに深夜が始まるときに仮眠室を使うだとか。そうすると、寝てても、行くよって言って、こんこんこんって(ドアをノック)してくれてたりとか。
あと準夜日勤っていうのがあって、深夜の1時に終わって普通の朝の8時ぐらいから日勤が始まるんですけど、その時に仮眠室を使うとかってして、遅刻しないようにっていうのは心掛けていたつもりですね。
精神科勤務1年目に、本当にもう夜勤がやっぱり慣れないことがあったので、車の事故をしたりだとか。そういうことがあったので、ちゃんと起きてから車も運転するだとか。
でもその頃は若かったので、夜勤明けにちょっとテンションが高くなって、ちょっとご飯食べに行こうイェーイみたいな、そういう感じで危険な、波が変になるっていうかね、そういうことは、今思い出すといろいろあったと思います。

障害ナースの語り

職場には病気のことは伝えており、倒れたらお願いということは言ってあったが、だから何かしてほしいということはなかった

( 職場に配慮をお願いしたことは)基本的に何もないですね。私ほとんどが外来勤務だったんですけど、病棟は独身のときに、結婚する前に2~3年ほど病棟はいたんですが、結婚してからはずっと外来で。総合病院でも外来を担当してました。
外来しながら日当直がありましたので、平日に当直に入ると24時間拘束になるんですね。病院内に。ですけども、特に自分で困ったこと、治療に関して病気のことは全部、スタッフ、外来スタッフも、先生方もみんなご存じだったので、それは、どういうのかな。
知ってても別に、大丈夫?っていう何もしない、(低血糖で)倒れたらお願いっていうのは言ってましたけどそれ以外は特に。「なんか食べなくてもいい?」とか声掛けはしてくれたりとかしたんですけど、「低血糖、大丈夫?」とかって言ってはくれるんですけど。
特に自分が困ったっていうのは、業務上こうしてください、ああしてくださいっていうのは、勤務先に伝えるっていうことはなかったですね。もう自分は糖尿病があります、インスリン打ってますっていうことだけだったんですけど。

障害ナースの語り

胃の手術後食事の調整が必要で復職は不安だったが、半日勤務からはじめて、半年くらいかけて周囲と同じシフトに戻してもらった

抗がん剤治療中はずっと入退院を繰り返してて、体力的には今の仕事に復帰するのは難しいかなって思ってたんですね。一番最初の治療の時は、抗がん剤のダメージが強くて、75キロあった私の体重が53キロまで減ってしまって。体力的には無理かなっていうのがあったんです。
その治療はあまりにもダメージが大きかったので、一応やめて、次の治療に入ったんですね。次の治療に入ってからは、多少の体のだるさとか不調はあったんですけれども、日常生活にそんなに支障があったかといえば、ないような状態だったので。
この治療でいけば社会復帰じゃないですけど、仕事にも出られそうかなっていう形で、徐々に治療をしながら、体力作りじゃないですけど経過を見ていきまして。
ちょうど1年間抗がん剤治療をやって、それで次の治療を「するかしないかは君の判断だよ」って先生に言われたので、私自身はやはり仕事に戻りたいっていう気持ちがありましたので、(治療は)1年だけやって、仕事に戻るっていう形で戻らさせていただきました。
や はり食事のことがあったので、仕事にちゃんと戻れるかなっていう不安が特にたくさんありまして。休職からちょうど1年で復職させていただいたんですが、最初は半日勤務で様子を見て、次にちょっと時間を伸ばして、3時までちょっと働いて。
3カ月、4カ月かけて、元の1日働くシフトを延ばしていくって形で、職場と調整させていただきました。本当にそのときは、職場もいろいろと私のことに配慮してくださって、私のわがままじゃないですけど。
ちょっと半日働いたので、次からはちょっと長くって言ったら、「ああ、いいですよ」っていう形で対応してくださったのは、本当によかったなって今思います。
1日働けるようになってきたら、やはり今度皆さんと足並みをそろえたいっていうことで。半年ぐらいかけて、みんなと同じようなシフトに戻していただいたっていうのが現実です。

ーー徐々にシフトを延ばしていったとか、最初は時間を短くその後延ばしていくとか、そういう方法はご自身で考えられたんですか。

はい、そうです。当時の上司が意外といろいろと協力してくださって、相談にのってくださって、体調の悪いときは無理しなくていいから、まず最初どのくらい働けるのかとか。どのくらいだったら大丈夫なのかっていうのを毎月面接をしていてくださったので。
最初半日から働きたいって言ったら、じゃあ半日から始めて、体力的に延ばせるって自信がついたら少しずつ延ばそうかっていう形で。もうそのときの上司に感謝しかないですけど、そういう形で勤務を組んでくださったので。
私の言うとおりじゃないですけれども、このくらいになったら1日働けそうだ、今やったら大丈夫そうだっていう形で、もう相談しながら毎月こうシフトを組んでくださったので、とても助かってました。

障害ナースの語り

看護師として復帰したいと主治医に強く伝えたら、院長と話し合って復帰する職場として車椅子でバリアが少ない職場を選んでくれた

私入院してるときに(改めて)看護を学びました、学んだ看護を仕事に生かしたいっていうのを先生(主治医)に強く、どのくらいの間だったんだろう、しゃべって、お話しして。
先生がそこまで強く(復帰を希望)するなら、と一気にだだだっと話が進んだので、復帰への気持ちが強くて、もう家に帰っても2~3カ月で復帰してしまったなっていう。

そのときの先生が女医だったんですよ、私の主治医が。やはり子どもさんもいまして、そういう意味では、私の状況も分かってくれたのかなって思うんですけども、先生に、看護師として復帰したいっていうときに先生は戸惑いました。表情的にも、言葉も。
何をする?って最初は言ってたんですけども、私の強い意志に負けたというか、先生も具体的な話はそのときにしないで、私に任せてっていう感じで、私が病院に、話をするからちょっと返事を待っててくださいってことで、具体的な話は全くしなかったんです。
それから1週間ぐらい待ったのかな、復帰が決まりましたっていう話で、そのときも何をするかっていうのはなかったので、とにかく復帰に向けて退院して、いろんなことを準備しましょうっていう話で退院したので。
で、復帰する間際に所属が分かりました、どこで働くっていうのが。なので先生はかなり頑張ってくれたんだなっていうのを、中身は分からないんですけども、そういう感じで、具体的な話なく、先生が中で頑張ってくれたと思ってます。

後 から分かったのは、(主治医の)先生が、院長にお話しして、院長が周りに相談した結果、私が説明受けたのは、部署がバリアフリーでかなり広く、ドアとかそういうのが少ないからっていう感じで(説明を)受けましたので、
いろんな部署には相談した結果、復帰できるところを考えてくれたと思ってます。まず(主治医は)院長先生にお話ししたっていうのは、聞いてます。

(配属先は)放射線科外来という部署なんですけども、その中でも建物が別棟で、RI室(核医学検査室)、そこが3部屋ぐらいずっと並んで奥まで広かったんですね。そういうところを車椅子で看護できるっていうことで、そこの部署に決まりました。