月別アーカイブ: 2025年3月

障害ナースの語り

母親が狭心症で病院につきっきりになり、それが看護職を目指したきっかけだった。また身の丈に合った職業だとも思っていた

(看護師になりたいと思ったのは)2つの理由があって、1つは親が狭心症で、心臓の太い脈が狭くなる病気になって、一時期体調悪い時期がありまして、それで病院に付きっきりのときがあったので、それが1つのきっかけかなーっていうような感じです。もう一つは自分の身の丈に合った仕事かなーっていうのがあって、もちろん自分の能力は、学校選びの際、偏差値とかそういったのって高校のときにしっかりと、先生と相談してどこに行こうかっていう話になると思うんですけど。その結果医師(になるのは)自分にとってはちょっと(レベルが)高過ぎるところで、それ以外の医療職と言ったら、看護師か理学療法士か作業療法士かみたいなところなので。その中でも特に看護にひかれたなっていうのがあって、それは人と関わる仕事だからかなーっていうのに魅力を感じたと思うので。だから看護のほう選択したっていう経緯があります。

ーー親御さんがっていう話だったんですけど、お父さまですかね。

母ですね。

ーーお母さん。そうなんですね。特にご自身の症状が、看護の進路に関係したっていうことはなかったっていうことですか。

はい。なかったと思います。当時(看護職になろうと進路を決めたのは診断前で)クローン病の症状っていうことが意識が全くなかったので。

障害ナースの語り

父親が早くに亡くなり、病気の人を救いたいという思いがあった。また母が一人で子育てをしており、自分は手に職を付けたかった

看護師を目指そうと思ったのは、父親をスキルス胃がんでなくしているっていうこともありまして、病気の人たちを救える人になりたいっていうのもあったのと。父親が小学校1年生のときに亡くなってるので、その後母が1人でずっと妹と2人を育ててくれたっていうこともありまして。母が、手に資格があれば私のように、例えば結婚、出産をして専業主婦になっても、ある程度子どもが離れたり、不幸なことに、旦那さんが亡くなったり、別れたりとかしても、自分が看護師として働くことによって安定した収入を得て、子どもたちを育てていくことができるよっていうような話をしてくれたので、そういうふうな道もいいのかなって思って、で、看護師のほうの道を目指しました。当時、准看護師から資格を取って上に上がってったんですね。なぜかと言いますと、母親が1人で働いてたので、やっぱり全日制の看護学校や看護大学となると、学費とか出してもらうのにかなりお金がかかるっていうのもありまして。

准看護師であれば、働きながら資格が取れるっていうことだったので、それで、准看護師として働こうかなと思ってたんですけれども。縁がありまして、高看(3年制の夜間の高等看護学校)の試験も受けたらどうかって言われたのでどうせ受からないだろうと思って、たまたま受けたら、たまたま受かってしまったので。高看のほうも定時制で、働きながら資格を取って卒業したので、家族に経済的負担をかけずに卒業できたっていうのは、自分でもちょっとよかったかなって思ってます。

障害ナースの語り

中学2年の時にろう者で初めて薬剤師の資格を取った人を知り、その後本人に会って自分も医療者を目指すことを決めた(手話)

看護師を目指そうと決めたのは中学2年のときでした。小さいときは、ろうの医師とか看護師はいなかったんですよね。医師免許を取った後、聞こえなくなって仕事を続けている方というのはおられたんですが、生まれつきのろう者で免許を取るっていう、資格を取るという方はいなかった。ろうの医師、看護師というのは、なれないのかなと思って育ってきました。中2のときに新聞で、ろうの聴覚障害者で初めて薬剤師の資格を取ったという記事を見たんです。じゃあ、医師や看護師になれるんだというところから覚悟を決めました。医療関係の仕事がしたいなというあこがれを持つようになりました。

そのときに実際、薬剤師の資格を取った方とお会いすることができて、さらにあこがれて、「よし私も」という気持ちが芽生えました。その後、医療関係の仕事は他にもいろいろありますよね、医師・看護師・薬剤師・理学療法士、何がいいかなとずっと考えていたんですが、自分は聴覚障害がある。医学的に見ると聴覚障害という診断名があります。でも自分は小さいときから聞こえなくて、聴覚障害と言われるようなの病気で困っているということはないんですね。
生活の中でコミュニケーションや、聞こえる方との日本語の音声で話す、手話で話すという違いの限界はありますが、自分の言語としては手話が当たり前なので医学的に治すっていう考えもあるんですが、治すから人生がうまくいくっていうわけではないですよね。

看護というのは人の暮らしとかの援助をする仕事で、障害や病気を持っていても誰でも生活が、健やかに生活できるようにという支援ができると思って、看護師になりたいなという決意を固めました。まあ、最終的にはその決意というのに至ったのは高校生のときです。

障害ナースの語り

高校生ながら、自分とはまた違ったハンディキャップをもって生活している人に関心があり、看護や医療に興味を持つようになった

僕の行ってた高校がもともと大体みんな大学に進学するような高校だったので、学校生活送りながら、自然に大学とか専門学校っていう選択肢は、元々あったので、学校行くか行かないかみたいなところでは、特に問題にはならなかったんですけども。
自分が看護の道に行こうかなっていうふうに思ったのが、直接的な要因はまた別で吃音とは関係ないところになってしまうんですけども、大学の専攻を看護に決めようと思ったきっかけが、高齢者施設でのボランティアだったりしたんですけども。
自分が吃音持ってて、他の人からなんかいろいろ言われたりだとか、そういうちょっとハンディキャップ持ってる人たち、自分自身がハンディキャップ持ってるからこそ、ご高齢で認知症持ってたりだとかそういう、自分とはまた違ったハンディキャップを持ってる人たちに対して、高校生ながら興味を持てたってのがあって、そういう活動をしてたんですけども。
そこから社会福祉とか、看護とか医療ってのに興味を持ち出したのは、自分がハンディキャップを抱えてるからこそのことだったのかなというふうに思いました。

障害ナースの語り

IBDのために貢献したいという思いは、自分のためでもあり同じ病気の人のためでもある。その思いはずっと揺らがなかった

正直なところ、(IBDに何か貢献したいと思ったのは、自分のためと同じ病気の人のためと)多分両方はあると思う。本当にIBDの人たちのためになりたいなと思うし、病気になった自分のためにも。
(自分は)病気だけどそういう病気の、同じ病気の人たちに何かすることによって、自分は何か社会に貢献しているんだとか思える、思えるようにはなったりもするのかなって。
何か病気の人たちのためだけっていうことではないですね。やっぱり自分のためでもあるし。

ーー看護師になるって、その決めたときから(その思いは)揺らいだことがないですか?

そうです。その6年目のちょっと転職を考えたときぐらい…、ですかね。

ーー大学時代の、こう先ほどもおっしゃっていましたけど、あのIBD以外のところにわざわざ(実習の配属を)希望して、あ、そこじゃないっていって確認してきたっておっしゃっていたんですけど。

そこも多分、職種の中で揺らぐことはあると思うんですけど、ただ、そのIBDのために何かをしたいっていうのは揺らがないですね。
バイトをしてたときは、料理人もいいかなと思ったんですけど。ただそれもIBDの人たちが制限の中でおいしく食べれるものを作りたいとか、IBDの人たちが何かをするのに良くなればいいかなって思う職種に惹かれはしたりしたんですけど。

障害ナースの語り

同じ病気の子が手を震わせながらインスリン注射をするのを見て、この子達に希望を持たせてあげたくて、まずは自分がと思った

やっぱり看護師かなって。自分の病気のことを知るためにも、自分と同じ病気の人に力をあげたいなって。病気があってもやれるよって。
当時、糖尿病があったら、結婚も妊娠も出産もなんか諦めてっていう人が多かったんで。当時、糖尿病のサマーキャンプっていう子どものキャンプが、今もあるんですけど、それに参加させてもらってたんですけど。
やっぱり社会的に病気のことを言えないとか、付き合ってる人にも病気のことを言えないとかいう、結婚されてるけど相手に話をしてないとかいう方もいらっしゃったりとかがあって。そういうのは絶対によくないよって。
でも(自分が)なんかやらないと、何も言えないし。まずは自分がやって、自分が実績を作れば信用してもらえるなって。
口だけ言っても信用してもらえないから、まず自分がやろうと思って、看護師になろう、そうしたら、病気のことも勉強できるし、いくらか詳しくなれるかなと思って。
で「私、看護師になります」って言って、そこの職場(バイト先)を辞めようと思ったら、「それならちょっと待って」っていうことで、そこの部長さんが今度新しくクリニックを開くっていう人を知ってるから見習いで行ったらっていうことを言われて、紹介されて。で、そこで最初働きながら、次の春を待って准看護学校に入ったっていうのが始まりです。

サマーキャンプへ行ったときに、自分よりすごいちっちゃい小学校1年生ぐらいの子が、手を震わせながら、初めてキャンプに来て自分でインスリンをすると。今までお母さんにやってもらってたのをこのキャンプに来たら、もう自分でインスリンやるんだよっていう目標設定みたいなのが当時あって。
1週間ぐらい、家族と全然会えないんですよね。そのときの先生が親が死んだとき以外連絡は受けないという感じで、スパルタだったんですよ。今だったら考えられないかもしれないですけど。
スパルタだけど、本当にね、あの先生がいてくれたから今もつながりがあるんですけど。いいキャンプだったって思うんですけど。その子どもさんを見たときに、本当に手を震わしながら涙をこぼしながら、今でもちょっとそれを思うと泣けちゃうんですけど、インスリンを自分の体に打ってたのを見たときに。
この子たちに希望を与えたいというか、希望を持たせてあげたいって。今の自分みたいに、何も夢も希望も持てない状況は絶対によくないと。じゃあ何か希望となるものをと。

でも当時そのキャンプの先生は医療従事者にはなるなと言ってたんですね。外にこの病気のことを理解してもらうためには、医療じゃない、違うところに行けって言われてたんだけど、いえいえ私は看護師になるから、なりたいから、もう看護師でいくよって言って、看護師を目指したんですけど。
その気持ちがいまだに、それは本当にいまだに残ってますね。なんかすごいそれが印象的で。(糖尿病に関して)これからどうしようっていうのはすごい多い時だったので、本当にまだ医療も進んでないときではあったので。
この子たちに、進学も就職も結婚も妊娠もできるよって、大丈夫よって言ってあげられるのは、自分がやるしかないって思ったのが、本当に始まり。だから自分が勉強して、やれば、なんとかなるかなって、うん、思ったのが始まりですね。

障害ナースの語り

自分がうつ病で入院したときに患者同士で語り合った体験をはじめ、製薬会社での社会人経験も看護に活かせると感じた

2回精神科に入院してるので、精神科出身の看護師としてもやって(みたかったし)。
あとで文献を調べたら統合失調症を克服して看護師になられた方の文献があって。その方は同じ病をもつ仲間を見る看護師としてのプライドっていう立派なことを書かれてて。
そこまで私は立派な人間ではないんですけども、でもやっぱり、自分の2回の入院で一番癒やしになったのは、同じうつ病の患者さん仲間との雑談だったので。
その同じ苦しみや、内容とか程度は違いますけれども、いくら看護師さんがすごくいい看護をしてくれても、なんか伝わりきらないところがあって。
伝わりきれないっていうか、癒やされきれない。

それなのに、例えば患者さん同士のテーブルでの午後の語り合いとかカウンセリングなんかで一緒に離婚の話とか、それぞれ会社を辞めた話とかで泣くんですけど、それはすごいカタルシスになるんですよね。
そういう作業療法とか、カウンセリングとか、精神的な病院で1990年代にはそれ(ケア)を受けるっていう幸運があって。そういう経験も活かしたかったんですね。
製薬の研究所とかあるいは、高校、大学時代って、自分より頭のいい人はいっぱいいたので、しかも(自分は)人生うまくいっていないから、自分は知能指数が非常に高いっていうことは全然自覚なかったんですよね。自尊心もないというか。ただ(社会人で看護師を目指して学んでいる人がいると)聞いてひょっとすると、看護学科の受験はうまくいくだろうと。

看護学校で習うそのいろいろな疾患の基礎知識はあるので、それはすごい楽だろうなと。それから真面目な話をすると、
製薬、薬のいいところ、悪いところって、製薬の研究者って言っても、私の場合は実験係なので、まだ研究者という肩書まで至らなかったんですけども
会社での研究者っていうのは課長さん以上なので、自分は実験工員さんだったんですけどね。
でもその薬の開発の経緯とか、薬のいろいろいいところ、悪いところを、製薬出身としても、患者としても、看護に生かせるんじゃないかと。

障害ナースの語り

入院したとき、同じ病室の患者仲間に社会人の看護学生がついていたのを見て、自分も社会人学生として学びたいと思った

看護師になろうと思い立ったのはですね、私は一つ目の大学と大学院で応用化学を専攻して最初プラスチックの研究所、それから思い返せば、私の場合、診断名が特定不能の広汎性発達障害なんですけども。
最初のプラスチックの研究所で2年ほどいてプロジェクトがうまくいかなかったこともあったんですけども、ちょっと私はうつというか引きこもってしまって。
そういうキャリア上の悩みと、結婚して子どもが生まれて1歳ぐらいの過程で、これも広汎性発達障害が関連してると思うんですけれども、当時の家内が離婚を切り出してきまして。
今から思えば本当に申し訳なかったなというか、診断もらったときのドクターは、あの、ま、誰が悪いわけでもないけれども、この患者に課題があるというようなことを言われまして。
そのキャリア上の悩みと離婚とあと息子をすごくかわいがっていたので。それでまたうつになってしまって。そのとき半年以上入院したんですね。
ざっくり言うと、阪神淡路大震災の頃なんですけれども。それ以降復職を頑張ったんですけれども、すごい体が重くなって頭も体も重くて、
実験やパソコンの楽な仕事など配慮してくださったんですけれども、それもモニター見てるうちに、ちらつきで倒れちゃったんですよね。
で、前歯を折ってしまって。それで多分もう無理だろうと、上司や研究所長もずっと休暇を延ばすとか配慮してくださったんですけれども、
でも体が動かなくなってしまって、それで退職しました。退職したらすごくほっとしたんですよね。

(退職後はアルバイトをしながら半分引きこもりだったが)東北の震災の2年ぐらい前に化学会社の製薬研究所時代の上司が、ありがたいことに製薬ベンチャーを起こして軌道に乗ったので、実験のアルバイトで呼んでくだすったんですね。
それを1年半ぐらいさせていただいて。でもそのときもすっごい風通しがいいし、全然嫌な人もいないし、仕事も楽しいはずなのに、なぜか体が重くて行けない日が多くって、結局辞めざるを得なくって。
辞めて半年ぐらいたったときに実は東北の震災とこれも本当に重なるんですけれども、買い物に行って今から思えば糖尿病の症状なんですけれども、体がうつとは違う疲れとか喉の渇きとかがあって。
ホームドクターに受診したら糖尿病ですって言われて。本当に青天の霹靂(へきれき)だったんですけど。自分が糖尿病になるとは思わなくて。でも糖尿病の治療の教育入院と、うつの療養を両方やりましょうっていうことで。
ホームドクターから近所の大きな病院に紹介していただき、精神科にそこで2、3カ月ぐらい入院したんです。
3カ月弱入院してる間に、同じ病室の仲間のところに病院の看護学科の社会人学生の方が付いて病棟実習をなされて。精神科の病棟実習なんですけれども。
その病室の友だちと(看護学生)の話を4人部屋だったんで聞くんですけれども、深いんですよね。
深いっていうのは何気ない美術館の話とか、後から聞いたらちゃんともう結構なお子さんがいらっしゃるって。すごく若く見えたんですけれども。
なるほどこれは社会人学生で看護師になれるんだっていうことを初めて知ったんですね。
それからひょっとして自分も(会社時代に)接客業とか店員とかお客さんとの会話は楽しめてそれなりに売り上げとかもあったので、看護師としてこれから生きてくことは、収入を得たり、生きがいを得ることが可能かなと思ったんですよ。

障害ナースの語り

他の15歳と同じだと乱暴に言った看護師自身も透析をしていることを後で知り、単純にかっこいいと感じて自分も看護師を目指した

(入院中の病室で)いきなりですね、いきなりですよ、「何してんねん、受験生、電気も付けずに」って言われたんですよ。あれっと思って見たら、そこに立っておられたのはですね、先ほどまで透析室で透析を受けていた(担当してくれていた)看護師さんが立っていたんですね。

私はびっくりしまして何も言えずにいたんです。そうすると、汚い言葉ですけども、「早く飯食って勉強せなあかんやろ、もうすぐ受験なんやから」と、また言われたんですね。
私はそれまで自分がどうなるんかも分かんないっていう状況の中だったし、もう死んでもいいんちゃうかなっていうようなネガティブな気持ちでいましたので、自分の気持ちを無視してですね、その看護師がしゃべりまくるんですね。
なので、イラッとしてですね(笑)。背中をまた向けたんです、ぐるっと回って。出て行くのを待ったんですね。が、その人出て行かないんですよ。出て行かずにまた言葉を続けるんです。
その人はこんなふうに言いました。「透析やって人生終わったとか思ってんちゃうやろな。あほやな、おまえは」って言われるんですね。「俺から見たら○君なんか、そこら辺にいる15歳のガキと一緒なんやで。早く飯食って寝て、明日は透析室で待ってるわな」って、「ほんならな」って出ていったんですね。
最初は腹立っていたんです、何言ってんねん、この人と思っていたんですけども、だんだんですね、その人がおっしゃった、「そこら辺にいる15歳のガキと同じ」っていうのがですね、すごく自分の心の中でどんどん、どんどんその言葉が大きくなっていくんですね。

何かっていうとですね、小学校のときに腎臓の病気というのを分かりまして、その後、長い入院生活の後、学校に戻るんですけども、最初はみんながですね、仲良かった友達も今までどおり遊んでくれるんです。
遊んでくれるんですが、だんだん、だんだんよそよそしいといいますか、何か腫れ物に触るような感じになっていくんですね。
そういったことを考えるとですね、その男性看護師さんがおっしゃった、「そこら辺にいる15歳のガキと同じや」っていう言葉がですね、そういった自分自身は人とは違うんだっていうものから解放された瞬間になったのかなっていうように思ってます。

その後に、高校のほうに無事合格をしたんですけども、半年ぐらいした後に「15歳のガキと同じや」って乱暴に言ったその男性看護師がですね、その人も人工透析を受けているっていうのが分かったんですね。
そこで働いていましたので、こんなふうに透析をしながら働いておられるんだっていうのを見ながらですね、自分もこんなふうになりたいな、人のためにと言うよりもかっこいいなって単純に思ったんですね。
なのでその後に、看護学校に行きたいっていうふうに、両親に言いました。

障害ナースの語り

退院後に外来通院を始めた高校生の頃、入院中に親身に話を聞いてくれた看護師に憧れを抱き、恩返ししたいと思うようにもなった

治療中のときは、看護師さんってすごいなっていう漠然とした憧れがあったんですけど、自分がなりたいとまでは強くは実は思ってなくって。
どちらかというと、退院して外来通院を始めた高校生くらいのときから、徐々に将来のことを考えるようになって、何か自分のその病気を生かせるような仕事に就けたらなっていう思いがあって。
どんどん憧れが強くなっていって、いろいろ支えてもらったっていうのもありますし、自分の経験を生かして恩返しができたらなっていうのを思い始めて。
高校生ぐらいから、看護師になりたいっていう気持ちが芽生えました。

中学3年生のときに小児病院に入院をしていたので、すごく小さい子もいましたし、同世代の子もいたんですけれども。
体調が悪いときは、もちろん看護師さんっていろいろ見に来てくださったりとか、サポートしてくれるんですけど、ある程度元気になってくると、中学生は手のかからない子たちなんですよね、小児科の中では。
なので、結構ほっとかれるというか、関わりがなくなってくるんですけれども。

そのタイミングでも、そのときにすごく憧れを抱いた看護師さんっていうのは、椅子に座って、「体調が良くなったけど、これからのことで困ってることないか」とか。
不安はないかっていうのを親身に聞いてくれたことが、私にとってはすごい支えになって。
自分のことを気にかけてくれている人がいることで、自分の治療に前向きになれたりとか、モチベーションが高まったりとかっていうのがあったので、そういう看護師になりたいなっていう気持ちがありました。