インタビュー時年齢62歳(2022年1月)
障害の内容:両下肢不自由による歩行障害
障害をもった年齢と職場:29歳、総合病院・外来看護師
現在の職場:糖尿病外来看護師

東北地方在住の女性。総合病院の外来看護師として働いていた時に出産後、乳腺炎になり、その後胸腰椎に膿が溜まる脊髄膿瘍と診断されて、手術を受けたが腰から下に麻痺が残った。
約1年半後に車椅子で職場復帰し、放射線科のRI(ラジオアイソトープ)センターなどで勤務を続けたが、52歳の時に大腸がんも経験した。
復職後、看護外来で勤務し、現在は総合病院の糖尿病外来で働いている。

プロフィール詳細

総合病院の外来看護師として働いていた29歳の時、次女出産後乳腺炎になり、その後背中に痛みを感じるようになって受診したところ、脊髄膿瘍と診断された。
1か月後に手術になったが、術前は一日単位で下半身のしびれや麻痺が進み、歩けなくなっていた。
術後、この先ずっと車椅子だと言われたが、自分としてはリハビリをしたら治ると思っていた。

手術をした病院に3ヶ月入院したあと、自分の勤務先の病院で1年間入院リハビリをした。
小さい子ども2人を実母と夫に託しての長期入院生活だったが、もともとポジティブな性格であり、子どもと早く一緒に暮らしたいという目標があって頑張ることができたと思う。
入院中は自分が患者の立場になって気づくことが多く、これまでの患者や周囲とのかかわりについて様々なことを振り返り、復帰後の看護に活かそうという思いでいた。

退院時、部屋の中は松葉杖だが、外ではほとんど車椅子という生活になった。
退院する際、医師から今後の生活について説明を受けた時に、仕事の話が全く出なかったことがとてもショックで、自分はどうしても看護師に戻りたいと伝えた。
その結果、主治医が院長に掛け合ってくれて復職が決まり、配属先も、バリアフリーな放射線科のRI室になった。

退院後3ヶ月で復職したが、RI室で勤務した最初の4年間は、午前中勤務し、13~15時までは院内でリハビリをして、その後また勤務に戻るという仕事の仕方をした。
給与も通常通りで、RI室は通常看護師3人配置のところに、自分がプラス1で入るような形で、恵まれていたと思う。
また、自分ができないことは他の人がすぐに手伝ってくれるようなチームワークがあり、とても有り難い職場だった。
ただ、車椅子姿を患者さんに見られながら看護師をやっていていいのかという思いもあり、常に葛藤があったことも覚えている。
 
RI室と放射線外来に15年ほど勤務した頃、そこの医師が「放射線科は、Doctor’s Doctorなんだ(医師が患者を診て診断・治療をするために、画像で診断する役割を担う医師)」という話をしてくれた。
自分は看護師としては健康な人の半分の勤めしか果たせないが、検査について患者さんに説明をするなど、現場の看護師を助けるような「Nurse’s Nurse」になれないかと思って、検査説明が多い内科外来へ異動希望を出した。
そこで糖尿病の患者さんへインスリン指導を頼まれるようになり、同僚から、都道府県の「糖尿病療養指導士」の資格を取らないかと言われ、勉強を始めた。

「糖尿病療養指導士」試験は1度目の試験は不合格で、2度目に受けようと思っていた50歳過ぎに大腸がんが見つかり、「どうして自分ばかりが」ととても落ち込んだ。
だが、手術も含めて4週間の療養生活を送る中で、やはり看護師に戻りたいと思うようになり、術後に勉強を再開して「糖尿病療養指導士」試験に合格して、その後は病院の「看護外来」で糖尿病の指導にかかわった。
病院は58歳まで外来で勤務し、今は総合病院の糖尿病外来で働いている。

2年前、これまでのことを振り返って本を出版した。
大腸がんで余命宣告をされていた姉と、今は認知症だが、最初の病気の時に自分を看護してくれた母親に読んで欲しいと思って書いた。
本には、自分に対して「頑張れ」という気持ちとともに、病気になっている人たちに病気に負けないで欲しいという思いを込めている。
また、書きながらこれまで支えてくれた人のことや、病気になってから生まれた絆を思い出して、ありがとうという気持ちになった。自分は病気になって看護が好きになった。周りも応援してくれるので、感謝を忘れず、これからも何でも前向きに考えたいと思っている。

私は: です。

(アンケート結果の扱いについては個人情報の取り扱いについてをご覧ください。)

認定 NPO 法人「健康と病いの語りディペックス・ジャパン」では、一緒に活動をしてくださる方
寄付という形で活動をご支援くださる方を常時大募集しています。

ご支援
ご協力ください

モジュール一覧