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インタビュー時年齢58歳(2022年3月)
障害の内容:PDD-NOS(特定不能の広汎性発達障害)
診断された年齢:47歳
関東地方在住の男性。40代でうつ病と糖尿病の教育入院のために入院していた先で発達障害と診断された。
その病院には社会人の看護学生が実習に来ており、その学生を見て、自分も看護師になることを決め、退院後に看護大学に入学して看護師の資格を取得。
新卒で高齢者の療養施設に就職をしたが、コミュニケーションがうまくいかないと言われ、1年強で退職をして、現在は翻訳活動をしている。
語りの内容
看護師になろうと思い立ったのはですね、私は一つ目の大学と大学院で応用化学を専攻して最初プラスチックの研究所、それから思い返せば、私の場合、診断名が特定不能の広汎性発達障害なんですけども。
最初のプラスチックの研究所で2年ほどいてプロジェクトがうまくいかなかったこともあったんですけども、ちょっと私はうつというか引きこもってしまって。
そういうキャリア上の悩みと、結婚して子どもが生まれて1歳ぐらいの過程で、これも広汎性発達障害が関連してると思うんですけれども、当時の家内が離婚を切り出してきまして。
今から思えば本当に申し訳なかったなというか、診断もらったときのドクターは、あの、ま、誰が悪いわけでもないけれども、この患者に課題があるというようなことを言われまして。
そのキャリア上の悩みと離婚とあと息子をすごくかわいがっていたので。それでまたうつになってしまって。そのとき半年以上入院したんですね。
ざっくり言うと、阪神淡路大震災の頃なんですけれども。それ以降復職を頑張ったんですけれども、すごい体が重くなって頭も体も重くて、
実験やパソコンの楽な仕事など配慮してくださったんですけれども、それもモニター見てるうちに、ちらつきで倒れちゃったんですよね。
で、前歯を折ってしまって。それで多分もう無理だろうと、上司や研究所長もずっと休暇を延ばすとか配慮してくださったんですけれども、
でも体が動かなくなってしまって、それで退職しました。退職したらすごくほっとしたんですよね。
(退職後はアルバイトをしながら半分引きこもりだったが)東北の震災の2年ぐらい前に化学会社の製薬研究所時代の上司が、ありがたいことに製薬ベンチャーを起こして軌道に乗ったので、実験のアルバイトで呼んでくだすったんですね。
それを1年半ぐらいさせていただいて。でもそのときもすっごい風通しがいいし、全然嫌な人もいないし、仕事も楽しいはずなのに、なぜか体が重くて行けない日が多くって、結局辞めざるを得なくって。
辞めて半年ぐらいたったときに実は東北の震災とこれも本当に重なるんですけれども、買い物に行って今から思えば糖尿病の症状なんですけれども、体がうつとは違う疲れとか喉の渇きとかがあって。
ホームドクターに受診したら糖尿病ですって言われて。本当に青天の霹靂(へきれき)だったんですけど。自分が糖尿病になるとは思わなくて。でも糖尿病の治療の教育入院と、うつの療養を両方やりましょうっていうことで。
ホームドクターから近所の大きな病院に紹介していただき、精神科にそこで2、3カ月ぐらい入院したんです。
3カ月弱入院してる間に、同じ病室の仲間のところに病院の看護学科の社会人学生の方が付いて病棟実習をなされて。精神科の病棟実習なんですけれども。
その病室の友だちと(看護学生)の話を4人部屋だったんで聞くんですけれども、深いんですよね。
深いっていうのは何気ない美術館の話とか、後から聞いたらちゃんともう結構なお子さんがいらっしゃるって。すごく若く見えたんですけれども。
なるほどこれは社会人学生で看護師になれるんだっていうことを初めて知ったんですね。
それからひょっとして自分も(会社時代に)接客業とか店員とかお客さんとの会話は楽しめてそれなりに売り上げとかもあったので、看護師としてこれから生きてくことは、収入を得たり、生きがいを得ることが可能かなと思ったんですよ。