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インタビュー時年齢:41歳(2018年12月)
障害の内容:全身性の肢体不自由(脳性麻痺)
学校と専攻:大学・医学(1995年度入学)・大学院・医学系研究科生体物理学(2006年度入学)
中国地方出身の男性。電動車椅子を使用している。高校までは普通学校に通い、周囲に勧められて進学を決め、首都圏の大学へ進学した。同時に一人暮らしを始めて、「お互いさま」で友人の助けを借りながら生活を続けた。もともとは数学が好きだったが、人への関心が高まり、専攻は医学を選んだ。実習や研修では教科書通りにいかない身体である難しさを感じたが、そのつど周囲とのつながり方を考え、工夫と調整を重ねた。現在は大学の研究者。
語りの内容
何ていうんでしょうか、あの、失敗が多いというか。例えばトイレに行こうとして、私自身、トイレに行きたいと思ったらかつては、親がすぐにトイレに連れていってくれていたわけですが、そういう暮らしをしていると自分1人でトイレに行けるかどうかすら自分で把握できていないという状況だったんですね。
なので、最初のうちは、こう1人でできる範囲を知るために一通り全部自分でやってみようかと思いまして、で、トイレに行きたくなったら自分ではって行って、便座のところで膝立ちをしてトイレに座るっていうことをやってみたんですけど、やっぱりうまくいかなくて何度も失敗をしてしまう…。
だけど、そうこうしているうちに、だんだんと困っている私をこう助けてくれる人が周りから、家族以外の助けてくれる人が出てきて。で、幸いですね、同じ同級生、高校の同級生が、同学年で、7~8人いたので、同じ大学にですね、その彼らが最初つないでくれたというか、あの、入れ代わり立ち代わり私をちょっと心配して見てくれて。で、いろいろ手伝いを、トイレ失敗したときには、その、リカバリーをしてくれたりとかですね、あと、食事を差し入れてくれたりとか…、慣れない段階の暮らしを支えてくれた最初のメンバーでした。
で、徐々に、徐々にそういうふうに支えられながら、あるときは自分で試行錯誤してできるようになる領域もあれば、やはり自分1人ではどうしようもないので、近所の工務店に頼んで、バリアフリーの工事をしてもらってトイレに行けるようになったりとか、あるいはバリアフリーの工事だけでも駄目な部分は、やはり介助者を入れる必要があるだろうということで、当時は無償ボランティアのような感じで、学生さんに、終電を逃した同級生を、に、寝床を貸す代わりに風呂に入れてもらうみたいな物々交換のような、感じで生活を組み立てていきました。
なので、ピーク時には、うちの下宿の鍵は合鍵が8本ぐらい作られていて孫鍵、ひ孫鍵みたいにどんどん広がっていって、最終的に全部回収できなかったんですけれど。鍵がいろんな人の手に渡って、家に帰ると「お帰り」と言われるような感じで、米びつの米も知らないうちになくなっていくような感じの暮らしで、何となくこう非公式な、学生のネットワークで支えられていたような感じですね…。
私にとっては、まあ、それはすごく大きな、これで何となく親がいなくなっても最低限の暮らしはできそうであるという自信を得たのも一人暮らしして1年目ぐらいでしたので、それは人生にとっては非常に貴重な1年間でしたね…。
インタビュー04
- 当初は数学を勉強したかったが、入学後の独り暮らしやサークル活動を通じて社会や人の多様性を勉強したくなり、医学を専攻することを決めた
- 親に頼っている生活に先がないと思っており、一人暮らしをすることも一つの当時の自分の目標だった
- 解剖学実習など手を動かしながら顕微鏡を覗くような授業は、できるところはやって、できないところは班の人からサポートしてもらう状況だった
- 実習では、処置について不安を感じたり、手術室で外科は難しいだろうなとも思った。一方で、内科で患者さんの鑑別診断をすることなど、自分が貢献できる場所があるとも感じた
- 制度がある程度整ってきた世代の特有のしんどさがある。障害の種別にもよるし、一生懸命やってもらっているので、それ以上文句が言えないということも多いと思う
- 障害学生の支援制度が整いつつある中、フラストレーションはあるが文句は言えないという人がいたら、支援者と自分だけにならずに、他の障害をもつ人に会うといい
- 自分にとって大学は、障害ゆえに傷ついたり困ったりしたことに、知や言葉によって対することを教えてくれた場だった。学問の中に、傷や困難に対するヒントがあると思う
- いまだに障害学生支援はしぶしぶやるような面があるが、大学は研究者が様々な知恵を持っている場なので、障害学生支援を知的好奇心の対象としてほしい(次のクリップに続く)
- バリアフリー支援室はまだ一部の専門性に偏っているが、支援室が全ての学問に開かれて障害学生が抱える傷や困難と学問をつなげられたら、地域にとって資源になる
- 最初は自分で一通りやってみて、難しい部分は同級生に手伝ってもらうこともあった。試行錯誤を重ね、親がいなくなっても最低限の暮らしは出来そうだと自信を得た
- 医学部への進学は当時学部内でも議論になり、ある教授がアパートに様子を見に来たが、前日に仲間と空けた一升瓶が転がっているのを見て、「彼なら大丈夫」と報告されたそうだ