インタビュー時年齢:47歳(2019年5月)
障害の内容:視覚障害(全盲)
学校と専攻:大学・社会学部(2016年度編入学)、大学院(2019年度入学)
首都圏在住の男性。小学校入学時は普通学校だったが、4年生から特別支援学校で過ごした。高校卒業後はあんま・はり・灸の3つの資格を取り、医療機関で働いた。その後思うところがあり、視覚障害者に関する障害福祉の研究をしたいと思って、大学に編入学し、現在は大学院に通っている。幼少のころからずっと音楽に親しみ、一時はプロを目指したこともある。現在は、一人暮らしをしている。
プロフィール詳細
慎吾(しんご・仮名)さんは、生まれた時は視力があったが、進行性の網膜色素変性症で徐々に見えなくなった。現在は、全く見えていない。小学校は母親の意向で普通学校に入学したが、視力が下がるにつれて勉強に不安を感じて、4年生のとき、自分で希望して特別支援学校へ転校した。
慎吾さんは幼いころから音楽に親しみ、小学校低学年では歌を歌い、4年生からはトランペットを始めた。また中学校では先生からベースギターを勧められ、楽器屋で声をかけられた人とバンドを組んでライブハウスで演奏活動をして、少しばかり収入もあった。両親は、慎吾さんの音楽活動に反対だったが、高校からは、音楽活動で学費を賄っており自立していたので、うるさくは言われなかった。
高校を卒業したらプロのミュージシャンとして生計を立てたいと思っていたが、両親にどうしても鍼灸等の資格を取ってほしいと泣きつかれた。そのため高校卒業後は同じ敷地内にある特別支援学校の理療科へ進み、「あんま・マッサージ・指圧」と「はり」、「きゅう」の3つの資格をとり、そのまま縁あって医療機関のリハビリ室で働き始めた。職場環境に恵まれ、患者さんに直接喜んでもらえる仕事はやりがいがあった。就職してからしばらくは仕事が楽しく、音楽を休んでいたが、働き始めて6年目くらいに、あるテレビ番組をきっかけにニューヨークに憧れ、仕事をやめて、ギターを2本持ってニューヨークへ渡った。そこでも出会いがあり、数年はライブハウスで演奏をしながら生活をしていた。
帰国後は特別養護老人ホームやIT企業で仕事をしていたが、ふと、多くの視覚障害の人が障害ゆえの生きづらさや不便さを感じ、社会に不満を持っているんだなということを意識したタイミングで、人から「研究者になったら?」と勧められた。30代までは、自分自身は幸せなのだからそれでいいと思っていた。また、自分が障害福祉の研究をすると、他の視覚障害の人から、「当事者だからわかっているよね?」という目で見られるのではないかという気がして、障害福祉の分野に進むことに壁を感じていた。だが、それでもまずは学んでみたいと思い、大学への進学を決意した。
大学は社会人経験を活かして学べるところを探し、通信制の大学に編入学をした。在学中、偶然、試験監督で来ていた社会福祉学の教授と話をするようになり、大きな影響を受けた。その教授はとても親しみやすく、自分にとっては兄のような存在で、彼と話したいと思って勉強を頑張るようになった。あるとき彼が持っている大学院のゼミに招待された際、ゼミの雰囲気にとても魅力を感じ、その日のうちに大学院への進学を決めた。その教授は、今では「一生の師匠」だと思っている。しかし、大学院1年目のゼミでは、指導教員から“慎吾さんの研究の意義は何か?”と問われ、すぐに表現できずに辛く苦しい思いもした。それでも学ぶこと自体はとても刺激的で面白く、意義があることを表そうと必死になり、気持ちが高揚した。現在は大学院2年目で、障害者の就労に関する研究を進めている。
慎吾さんは両親と本人の3人家族だったが、小さい頃は、事情があって母親の知人のところで育てられた。地域の大人に可愛がってもらったおかげか、今もよく人から、「人懐っこい」と言われる。職場などでも、この性格のおかげで、話をしているとごく自然に周りが配慮してくれるようになるし、自分では意図していないが、行った先々で良い出会いにも恵まれた。そのため、これまで目が見えないことで困った経験が全くないように思う。
慎吾さんは幼いころから音楽に親しみ、小学校低学年では歌を歌い、4年生からはトランペットを始めた。また中学校では先生からベースギターを勧められ、楽器屋で声をかけられた人とバンドを組んでライブハウスで演奏活動をして、少しばかり収入もあった。両親は、慎吾さんの音楽活動に反対だったが、高校からは、音楽活動で学費を賄っており自立していたので、うるさくは言われなかった。
高校を卒業したらプロのミュージシャンとして生計を立てたいと思っていたが、両親にどうしても鍼灸等の資格を取ってほしいと泣きつかれた。そのため高校卒業後は同じ敷地内にある特別支援学校の理療科へ進み、「あんま・マッサージ・指圧」と「はり」、「きゅう」の3つの資格をとり、そのまま縁あって医療機関のリハビリ室で働き始めた。職場環境に恵まれ、患者さんに直接喜んでもらえる仕事はやりがいがあった。就職してからしばらくは仕事が楽しく、音楽を休んでいたが、働き始めて6年目くらいに、あるテレビ番組をきっかけにニューヨークに憧れ、仕事をやめて、ギターを2本持ってニューヨークへ渡った。そこでも出会いがあり、数年はライブハウスで演奏をしながら生活をしていた。
帰国後は特別養護老人ホームやIT企業で仕事をしていたが、ふと、多くの視覚障害の人が障害ゆえの生きづらさや不便さを感じ、社会に不満を持っているんだなということを意識したタイミングで、人から「研究者になったら?」と勧められた。30代までは、自分自身は幸せなのだからそれでいいと思っていた。また、自分が障害福祉の研究をすると、他の視覚障害の人から、「当事者だからわかっているよね?」という目で見られるのではないかという気がして、障害福祉の分野に進むことに壁を感じていた。だが、それでもまずは学んでみたいと思い、大学への進学を決意した。
大学は社会人経験を活かして学べるところを探し、通信制の大学に編入学をした。在学中、偶然、試験監督で来ていた社会福祉学の教授と話をするようになり、大きな影響を受けた。その教授はとても親しみやすく、自分にとっては兄のような存在で、彼と話したいと思って勉強を頑張るようになった。あるとき彼が持っている大学院のゼミに招待された際、ゼミの雰囲気にとても魅力を感じ、その日のうちに大学院への進学を決めた。その教授は、今では「一生の師匠」だと思っている。しかし、大学院1年目のゼミでは、指導教員から“慎吾さんの研究の意義は何か?”と問われ、すぐに表現できずに辛く苦しい思いもした。それでも学ぶこと自体はとても刺激的で面白く、意義があることを表そうと必死になり、気持ちが高揚した。現在は大学院2年目で、障害者の就労に関する研究を進めている。
慎吾さんは両親と本人の3人家族だったが、小さい頃は、事情があって母親の知人のところで育てられた。地域の大人に可愛がってもらったおかげか、今もよく人から、「人懐っこい」と言われる。職場などでも、この性格のおかげで、話をしているとごく自然に周りが配慮してくれるようになるし、自分では意図していないが、行った先々で良い出会いにも恵まれた。そのため、これまで目が見えないことで困った経験が全くないように思う。
インタビュー17
- 特別支援学校の高等科にあんまマッサージ、はり・きゅうの資格が取れる課程があった。自分は行きたいと思っていなかったが、親に泣きつかれて資格を取った
- あんまや鍼灸の仕事に満足していたが、他の視覚障害の方たちが不満を抱いているのを知り、自分だけ幸せじゃいけないんじゃないかと思い始めたのが大学進学のきっかけだった
- 自分がこうあってほしいと思うことを社会に対して伝える手段として、思いを形に残せるようにするために、大学院の門を叩くことをお勧めしたい
- 学部は支援センターなどが多いが、大学院は必ずしもそうではない。支援の窓口や専門のスタッフを各大学院に置いてもらえると、障害者の研究者が生まれやすくなると思う
- 本をスキャンしてデータで読む作業は、ものすごい労力がかかる。最初から書籍データを入手できる場合もあるが、それを著者が許可していないこともあり、改善が必要だと思う
- 通信制の大学でたまたま会った教授に惚れ込み、その教授に認めてもらおうと思って一生懸命学んだら、その教授のゼミにも招待されて、それが大学院進学のきっかけになった