インタビュー時年齢:21歳(2019年5月)
障害の内容:発達障害(ASD:自閉症スペクトラム、DCD:発達性協調運動障害)
学校と専攻:大学・マスコミュニケーション学部(2016年度入学)
首都圏在住の男性。両親と姉、兄の5人家族で育った。小さい頃から発達障害の傾向はあったが、大学4年の春休みに診断された。人との関係が難しいこともあるが、即興芝居を行うワークショップに出会い、それがとても面白くて熱中し、表現する意義を感じた。発達障害のことも、ブログなどで発信している。大学入学を機に四国地方から上京し、現在は一人暮らし。
プロフィール詳細
晃(あきら・仮名)さんは、四国地方出身で、両親と姉、兄の5人家族で育った。子どもの頃から滑舌が悪く、運動なども同世代と比べてできないことがあり、3歳の時に親に連れられ診断を受けに行ったが、点数が足りてしまい、診断が下りなかった。小学校は普通校に入ったが、4,5年生頃になると、周りが、「こいつはいろんなことができない」と気づき始めて、いじられるようになった。それを当時の自分は、本格的な「いじめ」ではなく、親しみを込めた「いじり」だとは思っていたが、運動ができないこともあって、自尊心の低い状態が続いていた。
日常生活では、思ったことをすぐに口に出してしまうような衝動的なところがある。また子どもの頃から、一生懸命周囲に合わせようとして疲れてしまったり、自分ができなかったことを反省しすぎて落ち込んだり、文脈を読めず相手から言われたことが分からないことがあった。他にも、吃音があり、聴覚が過敏で多くの音がいつも聴こえている、逆に嗅覚や痛覚は鈍い。さらに勉強では小学高学年くらいからテストの点数が取れなくなり、暗算ができず、時には漢字が読めないようなこともあった。そのような症状から、ずっと発達障害だろうと自分でも思ってきたが、診断は受けていなかった。自転車に乗れない、はさみを使えない、お箸を上手に持てない、手遊びができないといった症状もあり、これは、DCDだろうと思っている。
大学では関心があった演劇に役立つと思って、専攻としてマスコミを選び、AO入試で入学した。入学直後みんなで仲良くするのがいいと思い多くの人と連絡先を交換していたら、それを気持ち悪がられて、「スタートダッシュ」を失敗したと感じた。大学は面白くなかったが、演劇はやりたいと思っており、1年生の後期に学外の即興演劇のワークショップに行くとそれがとても面白く、はまってしまった。
大学の日常的な授業に関しては、他の学生と同じように受けてきた。勉強は苦手で、努力しても勉強はできないが、自分の大学ではほとんどの試験で資料の持ち込みが認められているため、単位も問題なく取得できている。
晃さんは、自分はずっと発達障害だろうと思っていたが、ドラマや書籍で発達障害のことが扱われるようになったことがきっかけで、病院へ行き、4年生の春休みにADHDと診断を受けた。診断直後は、自分はもう障害者なんだと落ち込む気持ちと、同時に、これまでうまくいかなかったこともやはり発達障害のせいだから仕方ないと、楽になるような思いを持った。診断されたことを家族やブログで周りに伝えたところ、周囲が受け止めてくれたので、徐々に普通の生活を送れるようになった。診断されてからは母親とLINEをすることが増え、内容は変わらないのだが、母も優しくなったのか話しやすくなったように感じている。大学では特別な対応はないが、大学の同じゼミの友人や、サークルの先輩や同期、学外の即興演劇の仲間、小中高の友人などには、空気を読めず自尊心がないという自分の特性はADHDだからで、運動ができないのはDCDだからだと説明してきた。今後は、発達障害と診断されたからこそ、そういう自分の立場から、発信していきたいと思っている。
日常生活では、思ったことをすぐに口に出してしまうような衝動的なところがある。また子どもの頃から、一生懸命周囲に合わせようとして疲れてしまったり、自分ができなかったことを反省しすぎて落ち込んだり、文脈を読めず相手から言われたことが分からないことがあった。他にも、吃音があり、聴覚が過敏で多くの音がいつも聴こえている、逆に嗅覚や痛覚は鈍い。さらに勉強では小学高学年くらいからテストの点数が取れなくなり、暗算ができず、時には漢字が読めないようなこともあった。そのような症状から、ずっと発達障害だろうと自分でも思ってきたが、診断は受けていなかった。自転車に乗れない、はさみを使えない、お箸を上手に持てない、手遊びができないといった症状もあり、これは、DCDだろうと思っている。
大学では関心があった演劇に役立つと思って、専攻としてマスコミを選び、AO入試で入学した。入学直後みんなで仲良くするのがいいと思い多くの人と連絡先を交換していたら、それを気持ち悪がられて、「スタートダッシュ」を失敗したと感じた。大学は面白くなかったが、演劇はやりたいと思っており、1年生の後期に学外の即興演劇のワークショップに行くとそれがとても面白く、はまってしまった。
大学の日常的な授業に関しては、他の学生と同じように受けてきた。勉強は苦手で、努力しても勉強はできないが、自分の大学ではほとんどの試験で資料の持ち込みが認められているため、単位も問題なく取得できている。
晃さんは、自分はずっと発達障害だろうと思っていたが、ドラマや書籍で発達障害のことが扱われるようになったことがきっかけで、病院へ行き、4年生の春休みにADHDと診断を受けた。診断直後は、自分はもう障害者なんだと落ち込む気持ちと、同時に、これまでうまくいかなかったこともやはり発達障害のせいだから仕方ないと、楽になるような思いを持った。診断されたことを家族やブログで周りに伝えたところ、周囲が受け止めてくれたので、徐々に普通の生活を送れるようになった。診断されてからは母親とLINEをすることが増え、内容は変わらないのだが、母も優しくなったのか話しやすくなったように感じている。大学では特別な対応はないが、大学の同じゼミの友人や、サークルの先輩や同期、学外の即興演劇の仲間、小中高の友人などには、空気を読めず自尊心がないという自分の特性はADHDだからで、運動ができないのはDCDだからだと説明してきた。今後は、発達障害と診断されたからこそ、そういう自分の立場から、発信していきたいと思っている。
インタビュー18
- 自分の大学はそもそも試験などもすべて「持ち込み可」なので、何とかなっていた。「持ち込み可」ならちゃんと資料を取っておけば授業やテストは問題ないと思っている
- 演劇を学ぶために入学した大学だったが、中の人間関係がよくなかったので、学外の即興芝居のワークショップに参加して表現する楽しさを学び、青春を味わうことができた
- これから取り組む卒業論文では、発達障害である自分のことを振り返ることをしたいと思っている。自分を理解することにつながるし、誰かのためになるかもしれないとも思う
- 大学生になったことで出かけやすくなったり、学外の活動でいろんな人と出会った。大学は遠回しに背中を押してくれた存在で、大学生になった今の自分が一番好きだと思う
- 障害のためにできないことはあるかもしれないが、「大事な人はすぐ側にいるよ」という歌の歌詞があるように、意外と側に人がいるということを伝えたい
- 自閉症の診断を受けた人が「自閉症のくせに彼女がいて」と言われたとSNSに書いていた。たまたま自閉症でも、親からもらった名前がある一人の人として見てもらいたい
- ネットで見つけた発達障害の人たちが集まるカフェに友人と出かけてみた。だが、そこには自分より症状が悪い人たちが多く、とても居づらいような思いになった
- 自分の大学のゼミで議論の内容が分からなかった時、他の大学の耳の聞こえない友達に相談していた。友達も同じような悩みを抱えており、自分たちで議論の場を作った(筆談)
- 自分は人との距離を縮めるタイプで、入学当初多くの人に話しかけたが、大学の人たちとはうまくいかなかった。周りを見ていて、考え方が違うなと感じていた
- 大学で上京して一人暮らしを始めた。家族とは仲が悪いわけではないが、一人暮らしはとても自由で、楽園のような思いで過ごしている
- 診断されてから、母親への気持ちが変化したように思う。以前は、自分は出来ないことが多くよく怒られて怖かったが、診断されてからは「頑張ります」という気持ちが芽生えている