インタビュー時年齢:40歳(2020年9月)
障害の内容:脊髄損傷による肢体不自由(下肢障害)・手動車椅子使用
学校と専攻:大学・工学部(1998年度入学)、大学院・応用化学(2002年度入学)
関東地方在住の男性。20歳のとき自動車事故で脊髄損傷となり、車椅子の生活になり1年休学の後、復学。成績優秀だったにもかかわらず、第一希望の研究室に入ることができず、就職活動でもいくつもの企業に断られるなど、多くの壁に直面した。現在の職場は希望する研究職で受け入れてくれ、材料分野の研究では商品化につながる成果を出すことができた。今は会社の支援を受けながら、学生時代から続けてきたスポーツでも国際大会に出場している。
プロフィール詳細
孝則(たかのり・仮名)さんは、化学を学ぼうと入学した大学で、勉学にスポーツに充実した生活を送っていた2年生の春(2000年3月)、事故で自分が運転していた車の下敷きになり、脊髄損傷を負った。当初、医師から足が動かなくなることをはっきりと言われず、いつか治ると思っていたので、なかなかよくならないことに精神的に苦しんだ。しかし、リハビリ専門病院に移るときに、MRI画像で神経が完全に切れているのを見て、車椅子で生活していくことを前向きに受け入れることにした。
大学には同じ大学の教員だった親族を通じて復学の意思があることを伝え、1年の休学ののち復帰した。車椅子用のトイレの設置や横になって休める場所の確保などの要望を聞き入れてもらって、ハード面での苦労は少なかった。サークルの仲間たちからも「戻ってこい」と励まされ、競技用の車椅子を手に入れて復帰し、健常者とともに競技を楽しんでいた。
しかし、4年生になって研究室に配属される時点で壁にぶつかった。成績がトップであったにもかかわらず、「車椅子の人には研究させられない」などといわれ、学部に16ある講座のうち受け入れてもいいと言ってくれたのは5講座のみだった。車椅子の人に対する扱いに強い怒りを覚えたが、受け入れてくれた研究室の先生は良くも悪くも差別をしない人で、自分がやりたい研究をやらせてくれ、大学院でも同じ研究室に残って修士号を取得した。
就職活動は大学院1年の1月くらいから始まったが、ここでも周囲の学生が面接を受けて内定をもらっているのに、自分は企業にエントリーシートを出しても面接の連絡が来ないということが続いた。50社以上にあたったが、前もって車椅子であることを伝えると難色を示され、中には1カ月も待たされた挙句「やっぱり車椅子は難しいです」といわれたこともあった。大学院を出ても車椅子では希望する仕事には就けないのかと希望を失いかけた頃、流れが急に変わって大手4社から内定が出た。その中で、面接の前に車椅子だと伝えたときに、一般応募枠での募集になるが問題ない、車椅子対応の寮もある、と言ってくれた今の会社に就職した。
幸い志望していた研究職として採用され、研究所で材料系の研究に従事する中で、特許が取れて商品化にもつながるような成果を出せて、理系の研究者としてものを作ることの醍醐味を感じた。一方でお客様相談センターに1年間出向したときは、初めて直接顧客の声を聴き、「ありがとう」と言ってもらうという、研究所勤務にはなかった経験ができてとても楽しかった。
大学時代にやっていたスポーツはずっと趣味として続けていて、パラ競技の国際大会でも活躍するレベルになっていたが、東京パラリンピックの開催が決まったことで、会社員人生に大きな転機が訪れた。勤め先が東京パラリンピックのゴールドパートナーということもあり、自身が東京大会をめざすことを、会社を挙げて応援してくれるようになった。その後勤務地が都内に異動になって練習環境も整い、勤務時間の半分程度を練習に使えるようになった。
現在は仕事もそれまでの材料系の研究を離れ、人間科学の研究に従事するようになったが、練習のため研究に十分な時間を割くことはできない。研究で成果を上げて会社に評価してもらいたいという気持ちがある一方で、パラアスリートとして会社に貢献できるのは自分しかいないということもあり、少し複雑な気持ちである。ただ、今は競技で活躍することに集中し、将来的にその経験を研究にも生かしていければ、と考えている。
大学には同じ大学の教員だった親族を通じて復学の意思があることを伝え、1年の休学ののち復帰した。車椅子用のトイレの設置や横になって休める場所の確保などの要望を聞き入れてもらって、ハード面での苦労は少なかった。サークルの仲間たちからも「戻ってこい」と励まされ、競技用の車椅子を手に入れて復帰し、健常者とともに競技を楽しんでいた。
しかし、4年生になって研究室に配属される時点で壁にぶつかった。成績がトップであったにもかかわらず、「車椅子の人には研究させられない」などといわれ、学部に16ある講座のうち受け入れてもいいと言ってくれたのは5講座のみだった。車椅子の人に対する扱いに強い怒りを覚えたが、受け入れてくれた研究室の先生は良くも悪くも差別をしない人で、自分がやりたい研究をやらせてくれ、大学院でも同じ研究室に残って修士号を取得した。
就職活動は大学院1年の1月くらいから始まったが、ここでも周囲の学生が面接を受けて内定をもらっているのに、自分は企業にエントリーシートを出しても面接の連絡が来ないということが続いた。50社以上にあたったが、前もって車椅子であることを伝えると難色を示され、中には1カ月も待たされた挙句「やっぱり車椅子は難しいです」といわれたこともあった。大学院を出ても車椅子では希望する仕事には就けないのかと希望を失いかけた頃、流れが急に変わって大手4社から内定が出た。その中で、面接の前に車椅子だと伝えたときに、一般応募枠での募集になるが問題ない、車椅子対応の寮もある、と言ってくれた今の会社に就職した。
幸い志望していた研究職として採用され、研究所で材料系の研究に従事する中で、特許が取れて商品化にもつながるような成果を出せて、理系の研究者としてものを作ることの醍醐味を感じた。一方でお客様相談センターに1年間出向したときは、初めて直接顧客の声を聴き、「ありがとう」と言ってもらうという、研究所勤務にはなかった経験ができてとても楽しかった。
大学時代にやっていたスポーツはずっと趣味として続けていて、パラ競技の国際大会でも活躍するレベルになっていたが、東京パラリンピックの開催が決まったことで、会社員人生に大きな転機が訪れた。勤め先が東京パラリンピックのゴールドパートナーということもあり、自身が東京大会をめざすことを、会社を挙げて応援してくれるようになった。その後勤務地が都内に異動になって練習環境も整い、勤務時間の半分程度を練習に使えるようになった。
現在は仕事もそれまでの材料系の研究を離れ、人間科学の研究に従事するようになったが、練習のため研究に十分な時間を割くことはできない。研究で成果を上げて会社に評価してもらいたいという気持ちがある一方で、パラアスリートとして会社に貢献できるのは自分しかいないということもあり、少し複雑な気持ちである。ただ、今は競技で活躍することに集中し、将来的にその経験を研究にも生かしていければ、と考えている。
理工系インタビュー04
- 会社では研究部門に配属され、周りの人の協力も得ながら、車椅子でも仕事がしやすい環境を整えて研究を進めていったので、特に困ると感じることはなかった(テキストのみ)
- 車椅子でも実験しようと思えばできたのに希望した研究室に入れなかったのは、実験中にけがをされるリスクを先生が負いたくなかったからではないかと思う(テキストのみ)
- エントリー前に車椅子でも受けられるか問い合わせていたが、「検討します」と言われた後に断られることもあり、事なかれ主義のようなものを感じて怒りを覚えた(テキストのみ)
- 成績トップにもかかわらず、受け入れ可能と言われた研究室は16講座中5つのみだった。だが配属先の先生は良くも悪くも差別をしない人で、今もつながりがある(テキストのみ)
- 障害者採用枠だと障害者だけを雇用するような部署に配属され、給与も低く職種も限定されるのではないかと思い、一般採用枠を主戦場として就活をしていた(テキストのみ)
- 成績トップにもかかわらず、受け入れ可能と言われた研究室は16講座中5つのみだった。だが配属先の先生は良くも悪くも差別をしない人で、今もつながりがある(テキストのみ)(NEW)
- 入院中にサークルの仲間が戻って来いと声をかけてくれて、自分の居場所はここだと思った。元の競技はできなかったが、その後、車椅子競技を始めた(テキストのみ)(NEW)