インタビュー時年齢:42歳(2020年9月)
障害の内容:肢体不自由(下肢障害)・手動車椅子を使用
学校と専攻:大学・芸術学部写真学科(1996年度入学)
関東地方在住の男性。生まれつきの骨形成不全症で、幼いころから車椅子で生活してきた。小中高と一般校に通い、大学では芸術学部で写真技術を学んだ。卒業後印刷会社に就職し、13年間働いた後、ユニバーサルデザインに関心を持ち、今の会社に転職。現在は、障害者向けの製品の研究開発に従事している。同一労働・同一賃金をモットーに、必要なところは周囲の協力を得ながら、仕事に打ち込んでいる。
プロフィール詳細
仁人(よしひと・本名)さんは、ようやく歩き始めたころにたびたび骨折を繰り返すということで、医療機関にかかり、骨形成不全症と診断された。骨が弱いため低身長であり、これまでに50か所以上の骨折を経験している。そのため小学校時代は長い入院生活も経験したが、小中高と普通校に通い、バリアフリー化前の学校施設でも階段では同級生に車椅子を運んでもらって、問題なく過ごしていた。
大学進学に際しては、何を学びたいかはっきりとした志望はなかったが、当時は大学側の受け入れ体制が整っていなかったので、大学説明会に足を運んで、車椅子でも受け入れてもらえそうなところを絞り込んで受験した。入学したのは芸術学部で、写真技術を学んだ。大学側は暗室作業があることを懸念していたので、入学前に設備を見せてもらったうえでできそうだと伝え、実際問題なくこなすことができた。また、車の運転ができたので、学外に撮影に行くような授業でも特に困ることはなかった。
ただ、通学には電車を使っていて、大学の最寄り駅にエレベーターがなかったので、通学時には駅員1人と周囲の乗客3人の手を借りて、階段を昇り降りしなくてはならないことが大変だった。キャンパスにも坂が多く、上り坂では友人たちに押してもらうこともあったが、教室に入ってしまえば問題なく授業を受けることができ、充実した大学生活を送ることができた。
ちょうど就職氷河期で就職活動はかなり厳しかったにもかかわらず、当時は若気の至りで、障害者枠で雇われることに抵抗を覚え、車椅子だということを事前に伝えずに一般雇用のエントリーシートを出して、試験を受けに行っていた。大学では印刷技術を学んでいたので、印刷会社に絞って受験したが、周りの学生には合否の連絡が来ているのに、仁人さんにはなかなか来なかった。しびれを切らして自分から連絡したところ、車椅子の人は初めてで採用をためらっていたことがわかった。そこで改めて面談して、車通勤を認めてもらえて洋式トイレが使えれば、それ以外に特別な配慮は要らない、と伝えたところ、安心してもらえて採用が決まった。
その会社ではほかの社員と同様、残業や夜勤もこなして13年間働いたが、仕事をする中でユニバーサルデザインに興味を持つようになり、それに先駆的に取り組んでいる現在の会社に転職した。この時は、障害者雇用をやっている会社の企業説明会に参加して、就職活動をした。転職先は職場におけるダイバーシティに積極的に取り組んでいる会社だったので、エレベーターやスロープなどハード面の問題はほとんどなく、特別な配慮をしてもらう必要はなかった。現在の部署では、障害者向けの製品の研究開発を主に行っている。
最初の会社でも今の会社でも一般社員と待遇は全く同じで、同一労働・同一賃金で、第一線で働いてきたが、転職の際にハローワークでこれまでの雇用の記録を見たときに、自分が障害者雇用枠に入っていたことを知った。しかし、いまは若い時のようにそれに抵抗を感じるということはなく、そういう制度の枠があっても自分から会社側にどのように働きたいかをきちんと訴えていけば、車椅子の人に対する社会通念の殻を破ることもできると考えている。
大学進学に際しては、何を学びたいかはっきりとした志望はなかったが、当時は大学側の受け入れ体制が整っていなかったので、大学説明会に足を運んで、車椅子でも受け入れてもらえそうなところを絞り込んで受験した。入学したのは芸術学部で、写真技術を学んだ。大学側は暗室作業があることを懸念していたので、入学前に設備を見せてもらったうえでできそうだと伝え、実際問題なくこなすことができた。また、車の運転ができたので、学外に撮影に行くような授業でも特に困ることはなかった。
ただ、通学には電車を使っていて、大学の最寄り駅にエレベーターがなかったので、通学時には駅員1人と周囲の乗客3人の手を借りて、階段を昇り降りしなくてはならないことが大変だった。キャンパスにも坂が多く、上り坂では友人たちに押してもらうこともあったが、教室に入ってしまえば問題なく授業を受けることができ、充実した大学生活を送ることができた。
ちょうど就職氷河期で就職活動はかなり厳しかったにもかかわらず、当時は若気の至りで、障害者枠で雇われることに抵抗を覚え、車椅子だということを事前に伝えずに一般雇用のエントリーシートを出して、試験を受けに行っていた。大学では印刷技術を学んでいたので、印刷会社に絞って受験したが、周りの学生には合否の連絡が来ているのに、仁人さんにはなかなか来なかった。しびれを切らして自分から連絡したところ、車椅子の人は初めてで採用をためらっていたことがわかった。そこで改めて面談して、車通勤を認めてもらえて洋式トイレが使えれば、それ以外に特別な配慮は要らない、と伝えたところ、安心してもらえて採用が決まった。
その会社ではほかの社員と同様、残業や夜勤もこなして13年間働いたが、仕事をする中でユニバーサルデザインに興味を持つようになり、それに先駆的に取り組んでいる現在の会社に転職した。この時は、障害者雇用をやっている会社の企業説明会に参加して、就職活動をした。転職先は職場におけるダイバーシティに積極的に取り組んでいる会社だったので、エレベーターやスロープなどハード面の問題はほとんどなく、特別な配慮をしてもらう必要はなかった。現在の部署では、障害者向けの製品の研究開発を主に行っている。
最初の会社でも今の会社でも一般社員と待遇は全く同じで、同一労働・同一賃金で、第一線で働いてきたが、転職の際にハローワークでこれまでの雇用の記録を見たときに、自分が障害者雇用枠に入っていたことを知った。しかし、いまは若い時のようにそれに抵抗を感じるということはなく、そういう制度の枠があっても自分から会社側にどのように働きたいかをきちんと訴えていけば、車椅子の人に対する社会通念の殻を破ることもできると考えている。