インタビュー時年齢:40代(2019年8月現在)
障害の内容:聴覚障害(ろう)
学校と専攻:大学・心身障害学(1991年度入学)
関西地方在住の女性。両親と妹、弟の5人家族。5歳の時の高熱のあと聞こえなくなった。小中高は普通校に通い、とにかくしっかり勉強をしようと努力していた。大学は、心身障害学を学べるところを選んだ。大学に入ってろう者の先輩に会い、手話を覚えて世界が大きく広がり、その後大学院に進学し、アメリカへの留学も経験した。現在は研究者で、障害学生支援の仕事をしている。
プロフィール詳細
中野さんは、関西地方在住。育った家族は、両親と祖母、妹、弟の6人家族。生まれた時は聞こえていたが5歳の時に高熱が原因で進行性難聴となった。ただ家族や親戚、難聴者やろう者が多い家系でもあり、医師からは自分の難聴について遺伝的要素もあるかもしれないと説明された。小学校は普通校に入学した。
小学校5年生頃から中3までは聞こえないことも関係してか、いじめがあり、苦しい思いもしたが、とにかくよく勉強していい成績を取ることで学校に行くことへのモチベーションを保ちつづけようとし、高校も普通校の進学校へ行って、勉強を続けた。学校では授業中に聞こえないことがほとんどであるため、4月に教科書をもらった段階で前もってすべてに目を通して、内容を把握してから授業に臨んでいた。
大学は、自分自身が聞こえないことについてもっと知りたいと思って、心身障害学が学べるところに推薦入試を受けて進学した。最初授業で先生が話すことが聞こえず、授業に全くついていけずどうしようかと思ったが、同じ大学のろう者の先輩から「チューター制度」があることを教えてもらった。チューター制度は、障害学生の修学における支援をする学生に大学から謝金が支払われる制度で、中野さんもチューター制度を使って授業を受けることにした。また入学後に手話サークルに入って、半年くらいかけて手話を習得し、1年生の後期からは、手話サークルの学生に授業の通訳をしてもらうようになって、やっと授業内容を理解できるようになった。
中野さんにとって大学で出会った手話は、自分の人生を変える大きなツールになった。高校までは、補聴器をつけて耳元で大きな声で何度も話をしてもらい、それでもなんとなく大筋が分かる程度で、また一生懸命聴くことでの疲労感もあったが、手話でのコミュニケーションはそのような疲労感がなかった。手話を使うようになって初めて、他人がどんなことを話しているのか「わかる」ようになり、人との付き合い方や人間関係の結び方、会話のルールなど、とても重要なことを学んだ。両親は当初、中野さんが手話を使ったり障害者手帳を取得することに葛藤があるようだった。だが、中野さん自身としては、聞こえないことを隠してコミュニケーションがわからない場面でしんどい思いをするよりも、隠さないことへのプラス面が多いと思い、手帳を取って手話を使うことを自分で決めた。その後中野さんは、自分の生い立ちについて本に書き、それを読んだ両親は初めてこれまでの中野さんの孤独感や辛さを知り、それ以降、両親も手話の勉強をしてくれるようになった。
大学の2,3年の頃から専門の授業が始まったが、聴覚障害に関することは既に自分が知っていることばかりで、もっと専門的に学ぶために大学院への進学を意識し始めた。当時、手話は日常的会話のコミュニケーションをするには便利だが、アカデミックなことを手話で表すのは難しいと考えられていた。中野さんは自身、聴覚口話法では不可能にも関わらず、手話通訳で大学の授業にアクセスできることを実感していたので、当時の手話に関する定説に疑問を持ち、大学院ではそのことを研究し、将来は研究職になりたいと思っていた。
大学院進学後、中野さんは手話言語について学ぶために1年間の留学を経験した。留学先のアメリカでは、ろう者が自分の権利を主張することが当たり前に行われており、情報保障もきちんと整備されていて、日本との違いに驚くことが多く、貴重な経験だった。
大学・大学院時代は、自大学のろう者の先輩をはじめ、他大学のろう学生とのつながりもあり、色々な考え方と出会って自分の視野が広がった。中野さんは現在研究者になり、大学で障害学生支援の仕事をしている。障害を持つ人の働きやすさには課題もあるが、自分自身がろう者であるからこそ気づける視点があると感じているため、それを活かしていきたいと思っている。
小学校5年生頃から中3までは聞こえないことも関係してか、いじめがあり、苦しい思いもしたが、とにかくよく勉強していい成績を取ることで学校に行くことへのモチベーションを保ちつづけようとし、高校も普通校の進学校へ行って、勉強を続けた。学校では授業中に聞こえないことがほとんどであるため、4月に教科書をもらった段階で前もってすべてに目を通して、内容を把握してから授業に臨んでいた。
大学は、自分自身が聞こえないことについてもっと知りたいと思って、心身障害学が学べるところに推薦入試を受けて進学した。最初授業で先生が話すことが聞こえず、授業に全くついていけずどうしようかと思ったが、同じ大学のろう者の先輩から「チューター制度」があることを教えてもらった。チューター制度は、障害学生の修学における支援をする学生に大学から謝金が支払われる制度で、中野さんもチューター制度を使って授業を受けることにした。また入学後に手話サークルに入って、半年くらいかけて手話を習得し、1年生の後期からは、手話サークルの学生に授業の通訳をしてもらうようになって、やっと授業内容を理解できるようになった。
中野さんにとって大学で出会った手話は、自分の人生を変える大きなツールになった。高校までは、補聴器をつけて耳元で大きな声で何度も話をしてもらい、それでもなんとなく大筋が分かる程度で、また一生懸命聴くことでの疲労感もあったが、手話でのコミュニケーションはそのような疲労感がなかった。手話を使うようになって初めて、他人がどんなことを話しているのか「わかる」ようになり、人との付き合い方や人間関係の結び方、会話のルールなど、とても重要なことを学んだ。両親は当初、中野さんが手話を使ったり障害者手帳を取得することに葛藤があるようだった。だが、中野さん自身としては、聞こえないことを隠してコミュニケーションがわからない場面でしんどい思いをするよりも、隠さないことへのプラス面が多いと思い、手帳を取って手話を使うことを自分で決めた。その後中野さんは、自分の生い立ちについて本に書き、それを読んだ両親は初めてこれまでの中野さんの孤独感や辛さを知り、それ以降、両親も手話の勉強をしてくれるようになった。
大学の2,3年の頃から専門の授業が始まったが、聴覚障害に関することは既に自分が知っていることばかりで、もっと専門的に学ぶために大学院への進学を意識し始めた。当時、手話は日常的会話のコミュニケーションをするには便利だが、アカデミックなことを手話で表すのは難しいと考えられていた。中野さんは自身、聴覚口話法では不可能にも関わらず、手話通訳で大学の授業にアクセスできることを実感していたので、当時の手話に関する定説に疑問を持ち、大学院ではそのことを研究し、将来は研究職になりたいと思っていた。
大学院進学後、中野さんは手話言語について学ぶために1年間の留学を経験した。留学先のアメリカでは、ろう者が自分の権利を主張することが当たり前に行われており、情報保障もきちんと整備されていて、日本との違いに驚くことが多く、貴重な経験だった。
大学・大学院時代は、自大学のろう者の先輩をはじめ、他大学のろう学生とのつながりもあり、色々な考え方と出会って自分の視野が広がった。中野さんは現在研究者になり、大学で障害学生支援の仕事をしている。障害を持つ人の働きやすさには課題もあるが、自分自身がろう者であるからこそ気づける視点があると感じているため、それを活かしていきたいと思っている。
インタビュー27
- 将来は耳を使わない仕事がいいと思っていた。医学部にも興味があったが当時は欠格条項があり、それを改正してまで医者になろうとは思わなかった(手話)
- アメリカでは自分で電話を使うことができ、テレビにも全て字幕がついていて、これはすごいことだと思った。情報保障の重要性を実感した(手話)
- 当時日本には手話に関する学術的な研究は少なかったが、留学中に手話言語学の勉強をしたりするなかで研究のヒントを得て、それを博士論文につなげた(手話)
- 当時は手話自体への評価がまだ認められていなかったが、学部生なりにろう教育の専門家が間違っているのではないかと考え研究をして、それが大学院進学につながった(手話)
- 何がどこまでできるのかという限界を作るのは自分自身で、自分が限界を作らなければ先に進むことができると思う。チャレンジ精神を大事にしてほしい(手話)
- 障害学生支援体制は整いつつあるが、行った支援がこれで良いか、大学は支援内容をきちんとモニタリングする必要がある。自分も今後はそういう点を大事にしていきたい(手話)
- 大学で手話に出会い、聞こえないことを隠さず生きることを両親に伝えた。両親は最初心配していたが、後に自分の体験を書いた本を見せたとき、理解してくれた(手話)
- 入学後にろうの先輩に会い、大学の学生支援の仕組みを教えてもらった。また、手話サークルで手話を覚えたことで、社会で必要なコミュニケーションを学ぶことができた(手話)