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インタビュー時年齢:24歳(2019年8月)
障害の内容:肢体不自由(脳性麻痺)
学校と専攻:大学・人文科学(2014年度入学)
関東地方在住の男性。脳性麻痺で上下肢に障害があり、介助用車椅子を使用している。小中高は普通学校に通った。大学では英語を深く学びたいと思い、人文科学系の学部に入学した。翻訳ゼミに所属して翻訳をしたり、論文を書いたり、ゼミ仲間と外に出かけるなど、在学中は勉強だけでなく、とても多くの経験を積むことができた。現在は、自立生活センターで当事者スタッフをしている。
語りの内容
卒業後について本格的に考え始めたのは…、大学3年生とか、2~3年生ぐらいのときからですね。やっぱり皆、みんな、ゼミの仲間とかが…、インターンシップ行ってたとか、そういうのを聞くとやっぱり、もうすぐ就活しないとなとか…、思ったりして、ずっと…、焦っていましたね…。で、そのときにやっぱり就活……、就活しないとなと…、思ってたので、思ってたので、やっぱり僕はみんな、みんなと…、同じように就活できるもんだと、できると考えていたんで…、就活をしようと考えました。
就活は、まず…、大学内で、大学内にも障害者の方いたので、そこで何か…、そういう障害者のための、就活、就活サイトみたいなのも、サイトみたいなのを活用してそういう…、障害者、障害者の雇用枠で、最初は就活しようと考えていましたね。ですから、その障害者のための情報誌とかを使いながら、そういう就活の会社の説明会へ行ったり、合同説明会みたいなのも行ったりしたんですけど…、行きましたね。行ったんです。それでもなかなか…、なかなか…、うまく…、そういうなかなか条件が…、条件に見合った場所がなかなかなくて結構大変でした。
――それは具体的にどんなふうに大変でいらしたんですか。
例えば…、ここいいなと思っても…、例えば…、基本的に会社ってヘルパーを使っての通勤とか、ヘルパーを使ってのそういう就労とかって基本的に駄目らしくて、そういうのを、そういうのが駄目だったんでなかなか、うまくいかなかったですね。そういうのを僕の勉強不足で知らなかったもんですから、やっぱり…、結構、いろんな所に、合同説明会へ行ったりしたんですけど…、なかなかうまくいかなかったり……。エントリーしても、何だ、書類、書類選考で、落とされたりとか、そういうのも結構、ありましたね…。
やっぱり他のクラスメートとかはみんな内定決まる中で、結構決まんない、僕は結構内定とかで。僕の理想では4年生には内定とか決まっているもんだと考えてたので、結構焦っていましたね、そのときは、どうしようって…。そう、焦ったりして、大学の先生にも相談したり、うちの大学では、そういう就職アドバイザーみたいな先生もいるんですけど、その先生にも結構面談したりして…、ってしましたね。
インタビュー29
- 知らない言語に触れるのは新鮮で、もともと英語が得意だった。また社会や歴史も幅広く学びたいと思い、リベラルアーツを選んだ
- 脳性まひによる体の緊張で汗をかきやすいが、面接ではヘルパーや母親の同席は認められず、汗がたくさん流れて大変だった
- オープンキャンパスに何か所か行き、車椅子でエレベーターや教室の設備などが使えるバリアフリーかどうかをチェックした
- 早くから車椅子での生活も含めて第一志望の大学に相談していたが、高2の夏に急に、受験しても合格にはできないと言われた
- 自分は大学に対して配慮をなかなか求められず、大学側から意見を求められて初めて伝えるような状態だった。でも後輩には、もっと積極的に言ってほしい
- 中国語の授業の時に、自分だけテストをやらなくてもいいと言われたことがあり、なんで僕だけと思いつつ、半分はテストをやらなくていいのだと思って嬉しかった
- 自分も皆と同じように就活できると思っていたが、障害者雇用枠での就職をめざして説明会に通っても、ヘルパーを使っての就労は認められず、うまく行かなかった
- ゼミ論文は、まず本を読まなくてはいけないのが大変で、母親に手伝ってもらったが時間の制限もありなかなか進まなかった。代筆も、とても時間がかかった
- 当初英語を学びたいという思いで大学へ行ったが、実際には、小中高では習わなかった社会全体のことを学んだ。例えば仕事や対人関係について、深く考えることができた
- 入学からしばらく友達ができなかった時期があり、母親が介助で隣にいることで話しかけづらいようにも感じていた。だが徐々にゼミ仲間もでき、友達と話すことが増えた
- 大学からはヘルパーは出せないと言われてしまい、授業中のノートテイクや代筆、身の回りの介助をやってくれた。母親に対しては、感謝の気持ちと申し訳ない思いの半々だった