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障害学生の語り

IT技術を応用してすべての人に住みやすいスマートシティの開発に携わっているが、当事者だからこそ、使ってもらう側の気持ちに寄り添うことができるのではないかと思う

――元々は、その、バリアフリーとか、そういったことをやりたいということで、高専に行かれて、大学にも行かれたんだと思うんですね。で、その頃は、ちょっと土木寄りのことだったというふうに、おっしゃってらっしゃったんですけど。どんなことを研究とかされたんですか。

えーと、研究、研究自体は、まあ、過疎地域ですね。その、高齢者の、高齢化率の高い過疎地域の所に対して、どういう交通サービスを導入すれば、そこに住んでる方々の生活の質が上がるかっていうような研究をずっとしていました。

――なるほど。えーと、結果的には就職の際にはもう、そういう土木系とかには行かれなかったので。今は、IT系のほうで、そういったバリアフリーに関わるようなことをなさってるんでしょうか。

えーと、バリアフリーも含めてですけれども、まあ、もっと大きいことをやっていて。まあ、そういうある特定の困っている人だけではなくて、全ての人にとって、住みやすい町をつくるために、今、ITの力を使って、何かできないかっていうことをいろいろと模索しているような段階ですね。

――最近よくスマートシティとか、すごい聞きますね。

そうですね。まさに、その。

――こういう感じ。

はい。スマートシティとか、そういうところで、導入されるITの仕組みを、今いろいろと作っているという段階ですね。

――そこにご自身の経験、もちろん、視覚障害があるということもありますし、あるいは海外に留学されたこととか、そういうことを何かうまく生かせているなというふうに感じてらっしゃいますか。

そうですね。まあ、やっぱり、システムを作るときに一番大事になるのって、使ってもらう側の気持ちにどこまで寄り添えるかっていうところになってくるので。やっぱりこう、自分がそういう当事者であるからこそ、「もっとここの部分はこうしたほうが分かりやすい」とか、「こうしたほうが見やすい」とか、そういった意見っていうのはいろいろ言えるようになっています。

障害学生の語り

機械工学科は学生数が多く、優秀な人がたくさんいる中でどうやって差別化するかを考えて、ユニバーサルデザイン関連の資格試験を受けて自分に付加価値を付けた(音声のみ)

大学時代にですね、むしろ、その就職活動に対して不安を抱いたことはですね、自分の機械(工学科)っていうのは、その最初に言った5課程のうち、5種類の中で一番多い系統だったんですね、機械系っていうのが、学生は。まあ、それは学校の規模により、人数はよりますけど、機械って恐らく多いんですね、どの企業も。で、そういったところでですね、まあ、自分がみんなと同じ授業を受けてですね、みんなと同じものを持ったとして、まあ、当然、僕より賢い人がざらにいたので、「うわー、全然太刀打ちできないわ」。じゃあ、これを、例えば、この学生、みんな並べたときにですね、会社の方はね、どれを採るかっていったら、当然、同じ勉強をした人の中で優秀な人を採るんじゃないですか。それは明確じゃないですか…って僕は思ってたんで、「じゃあ、どうやって差別化するんだ」みたいな、何なら、こんな自分は制限されてる部分があって、それでも同じ総合職で雇ってほしいみたいな、うーん、何かないと難しいんじゃないかっていうか、ずっと危機感を覚えてたんですかね。
それで有効的なことができたかというと、うーん、確かなことはないんですけれども、まあ、自分は、ユニバーサルデザインとかに興味を持ってですね、途中からそういう資格試験を受けに自分で東京に行ったりとか。

自分の機械のそのカリキュラムで、そういうデザインを学べるかって言ったら学べないんですよね。文系の科目で、それに近い部分の授業はあるんですけど、じゃあ、その構造的な、こういう工学からそういうデザインを学べるかっていったら、そういうカリキュラムがなくて。だから、じゃあ、資格試験で一通りじゃないけど、ざっくりとでもいいから、知識を付けたいなって、で、それをもし取れれば、(エントリーシートに)書けるしみたいな、まあ、みんなと違うものだろうと思って。そういったところをですね、意識して、何かこう、よく2種類のものを掛け合わせて、イノベーションだとかよく言いますけど、まあ、そういったイメージですね。自分の付加価値をですね、何とか、こう、差別化できないかっていうところで、それで自分を売り出していかないと、自分を営業していくつもりで、そういうのを意識して、勉強しました。
だから、当然、みんなと同じように授業を受けて、研究をやるとかは当然で、みんな同じことをやってるんで、それだと、自分みたいな立場っていうと、まあ、言いたくないですけど、そういう弱い立場は物足りないし、何かこう、みんなと違うものを持ってるほうが、圧倒的に残ると思うんですよ、イメージ。いや、そういったところは意識してたし、自分も、まあ、今までの経験やそういう視点はですね、あのー、技術者として生かしていきたいとか、そういう話はしてたんですね。まあ、そういったことは考えてはいました、学生時代のときに。

障害学生の語り

自分自身が難聴という問題を直視して来なかった時期が長かったので、難聴の人の気持ちや対処の方法についての研究をやって自分自身が生活しやすくしたいという気持ちもある

あの、もう私の、私自身が難聴だという問題を、まあ、若い頃ですね、大学院の頃ですとか、比較的、うん、若かった頃は、自分の問題として、あんまり直視してなかった時期が非常に長くありました。で、その後、大学院を出まして、就職活動をしたときに、やはり耳の聞こえの悪さが、まあ、ちょっと、立ちはだかりまして、なかなか面接でコミュニケーションがうまくいかずに失敗してしまうことが多くあったんですね。で、そのときに、もう自分の聞こえ、聞き取りの悪さをもう直面せざるを得ないなと、考えないといけないなというふうになりまして、自分自身で難聴の人の研究を始めようということになりました。で、なかなか、自分の聞こえが悪いんだってことをほかの人に言いづらい、言いたくないなっていう気持ちも非常に多くありまして。その気持ちになんとかしたいっていうのもあって、自分自身でも難聴の人の研究をやって、自分自身がもう生活しやすくしたいなっていうところもあって、取り組むことになりました。

――その難聴の研究を始められたのは、ええと、大体お幾つくらいのときですか。

ええと、そうですね、年は、約10年ほど前になるかなと思います。はい。

――30代後半ぐらいになられてからって感じですね、はい。

そうですね、はい。

――そこで初めて、なんていうか、難聴と向き合おうという気持ちになられたということなんですね。で、ただ、そのときは研究として、難聴の人の心理みたいなことを研究しようということだったかと思うんですが、よろしいですか、そういうことで。

そうですね。えー、自分自身で難聴の人の、気持ちですとか、あるいはどんな問題に困っていて、どう対処すべきかということを研究したいということと、あと、私自身がつまづいていて、ま、自分が聞こえが悪いということをほかの人に伝えられないとか、あの、黙ってしまって失敗するとか、自分自身がうまくいっていなかったので、もう自分自身で取り組んで明らかにして、いきたいなというふうに思って、取り組んでます。

障害学生の語り

成績トップにもかかわらず、受け入れ可能と言われた研究室は16講座中5つのみだった。だが配属先の先生は良くも悪くも差別をしない人で、今もつながりがある(テキストのみ)

そうこうして大学の4年生になると研究室に配属されるっていう、ことがあるわけですけれども、研究室の配属はですね、成績順で選べるっていうルールになってました。私ですね、大学を主席で卒業したんですね。なんですけど、結果的にはそうなんですけど、4年生の時点で、その時点でも1番か2番かっていう状況だったのですから、どこでも研究室は行けたんですね、成績順なもので。ただ、じゃあ私がここに行きたいって言ったときに、何だろうな。ここなら行けるかなって思ったところで選んだんですよ、実は。なんですけど、そこに断られたんですね。「車椅子っていうのだと、なかなかこう、難しいよね」っていうことがあって断られて、じゃあと思って、さらにもっと行きたくないところだったんですけど、何だっけな。担任っていう制度みたいのが一応あって、ひと学年に2人先生がそういう先生が持ち回りみたいなので付いてた制度があって、副担任だったと思うんですけど、その副担任の先生のところに、不本意なんだけど、こっちとしては不本意なんだけども、この先生のとこだったら、しょうがない、ここに行こっかと思って、「じゃあここに入れさしてください」って言ったら「うん、まあ、なんか、籍としては入れさせてあげるけど、研究みたいのはやらせらんないよ」みたいなことを、結構、えん曲的に言われたんですね。
成績は良かったとしても、車椅子に対してはこういう扱いなのかってのは、そんときすごい思いまして、今から、まあ約20年前となると、(車椅子の主人公が出てくるドラマの)『ビューティフルライフ』とかがやって、後だったと思うんですけども、多少そのバリアフリーとかっていう言葉が出てきて、まだユニバーサルデザインっていう言葉は、少なくとも、ちまたには広がってないような時代だったんですが、そういうときだと、なかなか車椅子に対し、の人に対して研究をさせるっていうことは、なかなか難しいのかなっていうのは思って、どうしようかなって思ったときに、16個ですね。私のいた大学の学部では、研究室、専攻と言いますか講座があって、その16講座の、先生全員にこの●(本人の名前)さんを受け入れる用意があるかっていうことを聞いてくださいっていうことをですね、その担任か副担任のもう一人の先生に伺ってですね、聞いていただいたところ、5個から受け入れてもいいよっていう回答をいただいて、その5個の中で元々「あ、ここ行きたいな」って興味が持ってたとこが1つあったものですから、ところに、行かせていただいたということになりました。

その先生は、何て言いますか、良くも悪くもあんまりそういうこと気にしない先生でして、今でも非常に恩師でお世話になってる先生なんですけれども、私が車椅子であっても、ある意味では、何て言うんですか。差別しないというか、良くも悪くもですね、気にしないというか。実験器具とかは、高いとこにある物もあるので、低いとこに設置していただいて、自分でできるように、シリンジって言って、シリンジでやるところを、ポンプみたいなすれば同じことができるだろうっていうことで、ほんのちょっとなんですけど、変えていただいて、シリンジで反応させる液体を送るんですけど、通常は立って作業する位置に設置されていたんです。それだと車椅子ではできないだろうということで、ポンプを低い位置に設置していただいて、それで液体を送ることで同じような試験ができるようになりました。それで、実験をすることができるようになって、何だろうな。研究そのものがめちゃくちゃ重い物を持ったりとか、そういうおっきいスケールでやるってものでもないものですから、場所さえ確保されて車椅子でもできるようにすれば、別に何てことなくできる研究だったので、それをすごいやったという形でした。ある種その恩を感じたとこもあったので、大学とですね、その大学院においては、非常に、まあまあ、ほんとに楽しく、一般的な文系の私立の大学生とは違った、ほんとにもう毎日研究室にいるみたいな、そういうような生活を送って大学を過ごしたという形になりました。

障害学生の語り

エントリー前に車椅子でも受けられるか問い合わせていたが、「検討します」と言われた後に断られることもあり、事なかれ主義のようなものを感じて怒りを覚えた(テキストのみ)

当時は大学院1年の1月ぐらいから就職活動っていうのが結構盛んになってきて、1月2月ぐらいで面接を受けて、早い人は3月とか4月とかにもう内定が出てるという実態でした。元々やりたかった化学を専攻しているということで、けがをしても、自分なりにやれる自信もあったし、もちろんプラントとかの研究とかとなると、そもそも行けないっていうのがあるんで、そこは難しいと思うんですけども、ま、そうじゃなければある程度は行けるだろうというふうな、自分の中で見立てがあったので、そういう、会社、ことをやってる会社を狙いました。ここは推測としてある程度、大手のほうがそういう受け入れ体制はおっきいだろうということもあって、そういう意味において、もうほんとに従業員が1,000人規模の、大手を中心に受けたということをしました。
今もそうだと思うんですが、エントリーシートとかを出して、それから面接を行くっていう流れになると思うんですが、当時は、エントリーシートを手書きで書いて提出してたんですね。もっとも同じ研究室ですから、大体、志望するところも似たようなところも出す人が多くて、とあるこう会社にエントリーシートを出して、他の学生は、同期は、すぐにこう「じゃあ面接来てください」っていうことを言われるんですけれども、私に関してはレスポンスがないというのがあって、何だろうなと思ったら、やっぱりその「車椅子だとちょっと難しいです」っていうことを言われたってのが結構ありました。これだとちょっと、エントリーシート書くのも、ものすごいこう労力有するので、これはちょっと先に電話してから、事情を説明して、受けられるとこだけ受けようって作戦に切り替えてですね、そこでやってったわけです。当時の感覚として、7割ぐらいは、「ちょっと車椅子の方は難しいです」っていうこと電話口で、人事の方に断られて、とある金属の会社では「私たちは金属扱ってるんで、重い物は車椅子の方は持てませんから無理です」みたいなこと言われてですね。金属の研究だってもう別に、ナノレベルでやる研究だっていくらでもあんだろうと、こっちは思ったんですけど、電話口でそういうふうに言われてしまうと、「あ、そうですか」としか言いようがないので、逆に、むしろそうやって断られるってのは、私としてはありがたくて、何て言うんですかね。もっと嫌だったのが、「ああ、車椅子の方ですか。そうですか。じゃあちょっと検討してみますんで、エントリーシートだけ書いてください」っていうケースが一番困って、そういう会社何社かあったんですが、実際にこうエントリーシートを書いて送っても、それこそさっきの話じゃないですけど、他の人は1週間で返事があるところを、1カ月たっても連絡がないということがあって、ちょっとしびれを切らして「実はこんな経緯があったんですけど、どうなんでしょうか」って聞くと「やはり検討した結果、車椅子の方は難しいということになりました」っていうことを言われてですね、この時間は何だったんだと。検討すると言って、学生を何だと思ってんだっていうことは正直思ってですね、とある、何だろうな。最終製品も作ってる会社なんですけど、今でも根に持っていて、その会社の製品を買わないって決めて、今でも使ってないです。それぐらい私にとっては一生懸命やってるところを、何だろうな。大人の事情というか、事なかれ主義みたいなとこもあって、その瞬間は、責任は持たないけど、やっぱ駄目みたいなことを言って、時間と労力を奪われたっていうことに対する怒りみたいなのは、かなりありましたね。

障害学生の語り

耳の聞こえない学生同士でも福祉系学部に通う人が多くて理系はボッチ扱いされるので、チャットでやり取りしたり、年に2回くらい集まって自分の研究について議論したりした

――それは具体的に、どんな場だったんでしょうか。

いろんな、ま、理系のいろんな専門の人がごっちゃ混ぜになって、自分の研究のホットな話題を発表したりする。で、まあ、その研究がどう社会に生きるのかとかそういう議論をしておしゃべりの練習をするみたいな場です。こう書くと真面目に見えますが、実際はお酒飲みながらプレゼンをして遊ぶ場でした。

耳の聞こえない学生は、実は福祉系の学部に通う人が多くて、理系はボッチ扱いされる。自分の地域には、理系の話ができる人がいないという声が結構あったので、じゃあ一年に2回くらい集まって、まあ、オフ会みたいなのをやろうかと、そういう流れでできました。

――ご自身にとっては、こういう場を、が、あることって、どんな意味があったんですか。

まず背景を説明すると研究室の議論で、質問にうまく答えられないことがあった。その原因が、相手の言っていることが聞こえないからわからないのか、単純に知識が足りないからなのか、よくわからなかった。なので、自分で場を作って、「相手の言っていることが分からない」という条件をシャットアウトした。なので、議論をするときに、その場で議論をするときに、うまく答えられなかったら「自分の知識が足りない」というのが明確になった。なので、議論の力を鍛えることができたというのが大きいです。

――ここで、こういう場で聞こえない方同士で議論をするときは、手話を使うんですか?

手話をつかいます。

まあ、色々やり方はあって、指文字という日本語をまるごと、直接的に表現する方法を使ったり、プレゼン形式なので、スライドに専門用語を書いたり、あとは、その場限りの臨時的な手話を作る、「この用語はこんな風に表現するよ、いまは」という風に決めてやる、とか、そういう方法を使っていたと思います。まあ、上のやりかたはけっこう使われていた記憶があります。

障害学生の語り

研究では他の人同士の議論からも重要な気づきが得られるはずだが、自分にもわかるように話してほしいとは頼みにくくて、他の大学の耳の聞こえない友達に相談していた

勉強の意味では、困らなかったのですが、研究なのでアイデアとか議論が重要。議論自体は、まあ、実は自分と他の人の議論だけではなくて、他の人同士の議論でも重要な気付きが得られる。まあ、なので、まあ、自分と他の人の議論は分かったんですが、他の人同士の議論がわからなくて悩んだというのはあります。

――なんとなく、分からないで過ぎてしまっても、あの、もうそういうものかなっていう感じですか。

他の人同士の議論なので、自分が理解してなくても、直接的な被害はない。ので、聞きにくいし、向こうも説明の必要性を感じない。

――ご自身にとっては、もうあの直接的な被害がないから、あの、まあいいかなと言う感じだったのか、それとも、やっぱりせっかくはい、所属された研究室だったから、もっと他の人の議論もこう自分が理解をしたいなとか、ちょっとこう悔しい思いを持ったとか、ちょっとそのあたり、どんなこの、思いで、この時間を過ごされていたんですか。

どんな思い・・・・。どんな思い・・・(笑)。えー、まあ、仕方ないなぁと諦めつつも、まあ、議論の内容がわかれば、もっと、まあ、いい感じに研究できるんじゃないかなって気持ちはありました。

――逆に、あの、耳の聞こえない友達とか、他の大学に通っている方に相談をしたっていうことなんですけど、どういった相談をして、どんな風に、例えば何か助言をもらったりとか、そういうのがあったかとか。

ああ、助言はもらっていない。私も悩んでいるんだよねーという感じ。結局、研究室をどうにかするよりも、自分で議論の場を作ったほうが早いよねーという流れになって、耳の聞こえない学生同士で議論をする場を作ったりした。

障害学生の語り

車椅子に乗るようになって変わった。杖で歩いていたときは子どもにお化けと言われたが、今はかっこいいと大人気になり、見知らぬ人とのコミュニケーションもしやすくなった

ほんとに、理屈じゃないんですけど、車椅子に乗るようになってから変わったかなと思ってます。あの、杖をついているときは、あの、ま、外見だけの話になるかもしれないんですけど、あの、駅で子どもに会うと、おばけって言われたり、多分杖でこう、ゆっくり動いてるからかなと思うんですけど、車椅子に乗ったら、もうすごい、何か大人気でですね。それで子どもはあまり得意じゃなかったんですけども、仲良くなれるようになりました。何か、これはほんとにコミュニケーションと言っていいのか分からないです。ま、その、車椅子乗る前は、あの、車椅子乗る前と乗る後ではとても何かイメージが違うのかな。車椅子、Twitterとかで、情報なんですけど、別にこのセグウェイ車椅子じゃなくて普通の車椅子でも、結構子どもにかっこいいっていうふうに言われるっていうのをよく見ます。
……あとはやっぱり、自分のちょっとこれも主観が多分入ってると思うんですけども、もともとコミュニケーションは苦手で、あまり、特に日本だとあいさつ、知らない人にあいさつするってことなかったんですけども、何か多分車椅子を使うとやっぱり、何でしょうか、自分から結構、何だろう、人に対してオープンになっていかないと何か、何て言うんですかね、うまく回らないというか、…そこはちょっと…逆にちょっとまた、理屈が説明できないですけども、車椅子に乗ったほうが、あの、コミュニケーションがしやすくなったように思ってます。

あとは、皆さん、なんか、すごい親切にしてくれてます。あ、何か、ま、お店で物が取れなかったら取ってくれたり、落としたら取ってくれたりですとか、はい。…ちょっとどっちが先なのか。そうすると、あの、自分も何だろう、笑顔になるじゃないですけど、笑顔なったから優しくしてくれるのか、優しくしてるから笑顔なのか、ちょっとそこは分からないんですけども。そうです、コミュニケーションは、あの、そうです、あの、歩けているときよりも車椅子乗った後のほうが、とても何かスムーズにいってるのかなと思います。

障害学生の語り

視力が落ちて顕微鏡で試料を見るのが難しくなった頃にデジタルカメラが登場して首の皮一枚でつながって研究は乗り切れた。技術は日々進歩しているので情報収集は怠らない

研究面ではですね、あの、アメリカに行ってからですね、まあ、日本では使ってなかったような新しい顕微鏡、まあ、電子顕微鏡というやつなんですが、それを使い始めたんですが。これがですね、あの、真っ暗な部屋の中でものすごく薄暗い、あの、試料を見るという実験で、これは難しかったですね、正直。自分には、もうできないかなと思ったこともありました。
なんですが、ラッキーだったのはですね、当時からですね、カメラの技術が発達してたんですね。既にデジタルカメラ、取り代わりつつあった時代で。それまではもうあれですね。銀塩フィルムっていうのを使って、普通に写真撮影して現像して、その結果を見てどう思う、どうなったかっていうのを判断するので、結果を見るまでに、2日や3日かかってたんですよね。で、これが今、デジタルカメラに変わったので、その場で撮った画像がいいか悪いかっていうのを、すぐ判断できるようになったんですね。で、なおかつ、自分の目ではなくてカメラを見てカメラ越しに、例えば試料を、じゃあ、ピント合わせてって、ピント合わせしたりとかいうのができるようになってたので。ここで、僕は首の皮一枚つながった状態で、何とか研究は乗り切れたっていうところです。

長い間の将来設計っていうのは、正直、私はしてないです。というのは、やっぱり10年後、20年後の未来を考えると、どうしても今の自分より見えなくなった自分しか想像できないんです。そういったときに、まあ、もちろん長期的な視点を持たないといけないっていうのは、それはまあ、もちろんそうだと思うんですけど。えっと、まあ、どうなってるか分からない。
ああ、特に何でそれを言うかっていうとですね、最近ですね、いろいろIT技術が進んできててですね。例えば僕なんかは、もう点字は要らないんじゃないかと実は思っているぐらいなんですね。っていうのは、画像認識とかそういうのが優れてるので、スマホで、もういろんなものを読み上げたりとか、できるようになってるわけですよね。そうすると、まあ10年後とかいうのは、そういったいろんな技術とかが生まれてる可能性があるので、まあそのときに考えましょうと。取りあえず今は、今できることをしっかりこなしていく。で、ただし、情報収集は怠らないっていうふうにしています。
というのはどういうことかっていうと、やっぱり働き続けてる視覚障害者の仲間がいる。その人たちは、どういう工夫を続けているか。何か新しい工夫はあるのか。っていうのと、もう1つは、あの、そうですね。情報を発信することを、SNSでですね、やってるんですね。これ、発信している理由はもう、1つで。発信をするとですね、情報が集まってくるんですよ。こういうのがありますよとかって。ということで、発信を続けることで情報を得てるっていうのと。
もう1つは、僕は、まあ、アメリカにいたこともあるので、情報の入手先は、視覚障害に関してはかなり英語のほうが主です、はい。結局は、アメリカとか欧米で得られた技術っていうのが、日本に入ってくることが多いので。で、先手を打って、アメリカ・ヨーロッパではこういったことをやられてるっていうのを、情報を得ておいて、それを真っ先に試すというようなことを続けてます。
ですので、まあ、日々、技術は進歩してるっていうのは実感してますし。で、結局、長い先を考えたときにも、答えとしてはやっぱり日々、今をしっかりやるっていうことしかないのかなと思って。うん。今を生きるということに、まあ、集中してるというところですかね。

障害学生の語り

人生を諦めたつもりだったがセグウェイを改造した車椅子を見つけ、これならと思った。段差での揺れが少なく歩くのに近い感覚で移動でき、両手が空くので重い扉も開けられる

それでですね、入院してるときからもう、世界中の、何だろう、車椅子を調べたんですけども、……その、ほんとに何て言うか、人生を諦めた状態じゃないですけども、もう何でも、見た目も気にせず、ほんと好きな、好きなというか、どんな可能性でも試してみようみたいな感じがあったので、今乗っている車椅子なんですけど、…あの、これ、車椅子です、セグウェイを改造した車椅子なんですけれども、これは面白そうだ。日本で乗ったら…何かすごい怒られるかもしれないんですけど、どうせ、やっぱどうせ、1回、人生を諦めたつもり、心づもりだったので、何でもちょっと、これだったら、何だろう、……これに乗ったら外に出られるんじゃないか、そういう、やっぱり根拠のない考えがありまして、すごい高いんですけれども、それもですね、お金を払って、バリアが少なくなるんであればいいんじゃないかっていうふうに考えました。

……ちょっとまだ自分の気持ちを分析できてないところがあるかもしれないですけども、多分普通の車椅子、例えば乗りたくなかったのかもしれないです。で、これがかっこいいのかどうか分からないですけども、多分すごい変わった車椅子だし、実際乗っててちょっと楽しいと思うんです。なんで、そう、もう1つ思ったのが、…何だろう、障害者になったからこそ、こう、楽しめることみたいな、例えばあったらいいのかなとも思いました。

――これを選ばれたのは、従来の、車椅子と比べてどういうメリットがこの車にはありますか。

いろいろあると思います。実際に私もいろいろ理由があって、どれが決め手っていうことないんですけども、一番はやっぱり……一番歩くのに近いのかなとも思うんですね。車椅子、普通の手動車椅子で、段差で、多分乗ってみないと分かんないと思うんですけども、すごい揺さぶられる、横にずれたり。一応言い方あれ(極端)かも分からない(が)、あれはもう、何だろう、人権、人権などの(問題ではないか)…。ちゃんと、体を揺さぶられないで進めるっていうのは、これはタイヤが大きいので、段差の影響を受けにくいです。細かい理由としては、私は足に振動が入ると、けいれんが出てしまうんですけども、普通の車椅子、細いタイヤの車椅子よりはこちらのほうが、けいれんは出にくいというのがあります。
あとは、電動車椅子との比較で言うと、普通の車椅子ってジョイスティックでコントロールする。あれ、僕はすごい難しいのかなと思うんですが、少しの動きでたくさんこう動いてしまうんですけども、これ多分、ハンドルなんですごく、私はこっちのほうが簡単だと思います。あの、直感的に動いたりして。

この車椅子の便利な点は、両手を使わないでも移動ができるので、重い扉も開けることができます。最初、開けられずに苦労しましたけども、ちょっとうまくなると、例えば重い扉でも両手を使って、体を傾けて、開けることができます。それから、その、…そうですね、基本的には例えば手を使わなくても、あの、前後が移動できるので、あの、物も持ったりすることもできます。