インタビュー時年齢:47歳(2019年1月)
障害の内容:発達障害(ADHD:注意欠陥多動性障害)
学校と専攻:大学・教育と心理(2010年度入学)、大学・生活と福祉(2012年度入学)
関東地方在住の男性。子どもの頃からノートが取れないなど人と違うところがあったが、社会人になり仕事がうまくいかなかった時に診断を受けた。作業所に通い、一人暮らし開始をきっかけに通信制の大学で学び始め、配慮を受けながら非常に多くのことを学んだ。人からは、ムードメーカーだとよく言われる。趣味は折り紙と映画。現在は一人暮らしを続けている。
プロフィール詳細
隼人(はやと・仮名)さんは、子どもの頃はおとなしく友達もいなかったが、好奇心は強い子だった。学校に友達がいないことを親に心配されたこともあったが、それでも学校も勉強もとても好きだった。ただ、頭で理解できても文字が書けないため、テストの点が取れなかった。人間関係では、人が好きで、人を楽しませることをいつも考えていた。周囲からはまじめにやれと言われることも多かったが、ふざけて周りを楽しませるためには情報を仕入れることも重要で、そんなことを努めてやっていたように思う。
高校の時にスーパーで接客をした時は非常にうまくいった。しかし社会人になってからの職場では、不適応を起こし、クビになることを繰り返した。30歳頃には精神的にも参ってしまっていたが、当時、大人の発達障害が話題になっていたこともあり、自分も発達障害かもしれないと思った。本を読むと、不注意であることや、仕事が長続きしないこと、得意不得意が極端であることなど似たような特性の人がいることで安心感もあり、診断を受けたら援助を受けて仕事もうまくできるかと思ったが当時診断をすぐにできるところには出会えなかった。次第に家族からも「根性が足りない」と厳しい言葉をかけられた。結局発達障害と診断を受けるまで40ほどの仕事を経験し、その頃には、自分の存在理由がわからないような状態になってしまっていた。
働けない時期は辛かったが、その間も、インターネットなどで発達障害のことは調べていた。そんな中、2004年に発達障害支援法ができ診断が受けやすくなったため、母親と二人で市のセンターへ相談しに行った。そこでも診断までには1年くらいかかったが、ようやく発達障害であると診断された。
自分は人が好きで人を楽しませることが好きだという特性を生かして、その頃、折り紙を始めた。その後折り紙で資格を取得して、人が集まるところでは折り紙を披露したり、折り紙を教えてあげたりすることが多い。今考えると、障害を受け入れるために、「普通になるのはもうあきらめよう」と思い、人を嫌いにならないように努力し、また、まず自分の得意なことを探して積極的にやろうと思ってきたと思う。診断されたことで、自分を責めなくなり、過去の様々なことを仕方ないと思うようになれた。
診断を受けた後は作業所に通い始めるが、そのタイミングで一人暮らしを始めた。前から特別支援教育の勉強をしてみたいと思っていたこともあり、2010年に通信制大学へ入学した。学んだ科目は、心理学や哲学の他に、映画論など、自分のその後の趣味につながるようなこともあった。今は年間100本ほどの映画を見ている。当時、作業所の給料を全部学費に回すくらい、学ぶことがとても楽しかった。大学で学びたいと思ったのは、多数派の人がどのように社会を作ってきたのかに関心があったのと、発達障害の自分を知りたいという動機もあり、発達障害の授業では、自分が体験談を話すような経験もした。また大学は基本的には通信制だったが、定められた期間、通学することも必要で、その時は周りと交流したり、その後Facebookでつながるなど多くの友人ができた。ADHDは本音と建て前を使い分けるのが苦手だと言われるが、自分は、本音や素の状態で受け入れられるところをたくさん作ってきたと思う。
「遊び」と「勉強」は反対語に取られることが多いが、勉強するほど世界が広がり、楽しみや喜びが増えると思っている。遊ぶことは、イコール、学ぶことだとも感じる。発達障害の人は感情コントロールが難しく落ち込むことも多いと言われるが、そんな時に好奇心を持っているとどんなことも乗り越えられる。発達障害は、生きづらさにスポットが当たることが多いが、どう自分のことを好きになるかが本当に重要だと思っている。
高校の時にスーパーで接客をした時は非常にうまくいった。しかし社会人になってからの職場では、不適応を起こし、クビになることを繰り返した。30歳頃には精神的にも参ってしまっていたが、当時、大人の発達障害が話題になっていたこともあり、自分も発達障害かもしれないと思った。本を読むと、不注意であることや、仕事が長続きしないこと、得意不得意が極端であることなど似たような特性の人がいることで安心感もあり、診断を受けたら援助を受けて仕事もうまくできるかと思ったが当時診断をすぐにできるところには出会えなかった。次第に家族からも「根性が足りない」と厳しい言葉をかけられた。結局発達障害と診断を受けるまで40ほどの仕事を経験し、その頃には、自分の存在理由がわからないような状態になってしまっていた。
働けない時期は辛かったが、その間も、インターネットなどで発達障害のことは調べていた。そんな中、2004年に発達障害支援法ができ診断が受けやすくなったため、母親と二人で市のセンターへ相談しに行った。そこでも診断までには1年くらいかかったが、ようやく発達障害であると診断された。
自分は人が好きで人を楽しませることが好きだという特性を生かして、その頃、折り紙を始めた。その後折り紙で資格を取得して、人が集まるところでは折り紙を披露したり、折り紙を教えてあげたりすることが多い。今考えると、障害を受け入れるために、「普通になるのはもうあきらめよう」と思い、人を嫌いにならないように努力し、また、まず自分の得意なことを探して積極的にやろうと思ってきたと思う。診断されたことで、自分を責めなくなり、過去の様々なことを仕方ないと思うようになれた。
診断を受けた後は作業所に通い始めるが、そのタイミングで一人暮らしを始めた。前から特別支援教育の勉強をしてみたいと思っていたこともあり、2010年に通信制大学へ入学した。学んだ科目は、心理学や哲学の他に、映画論など、自分のその後の趣味につながるようなこともあった。今は年間100本ほどの映画を見ている。当時、作業所の給料を全部学費に回すくらい、学ぶことがとても楽しかった。大学で学びたいと思ったのは、多数派の人がどのように社会を作ってきたのかに関心があったのと、発達障害の自分を知りたいという動機もあり、発達障害の授業では、自分が体験談を話すような経験もした。また大学は基本的には通信制だったが、定められた期間、通学することも必要で、その時は周りと交流したり、その後Facebookでつながるなど多くの友人ができた。ADHDは本音と建て前を使い分けるのが苦手だと言われるが、自分は、本音や素の状態で受け入れられるところをたくさん作ってきたと思う。
「遊び」と「勉強」は反対語に取られることが多いが、勉強するほど世界が広がり、楽しみや喜びが増えると思っている。遊ぶことは、イコール、学ぶことだとも感じる。発達障害の人は感情コントロールが難しく落ち込むことも多いと言われるが、そんな時に好奇心を持っているとどんなことも乗り越えられる。発達障害は、生きづらさにスポットが当たることが多いが、どう自分のことを好きになるかが本当に重要だと思っている。
インタビュー06
- 社会人を経て、一人暮らしを始めたタイミングで時間が自由になり、前から大学で学びたかったので、大学に行き始めた
- 通信制大学は、好きなペースで学ぶことができ、学費も安く、無理なく続けていける人がいっぱいいるのがいい
- 試験は個室受験で周りを気にせずに済み、試験の形式も記述式とマークシートが選べたので、字を書くのが苦手なためマークシートを選んだ
- 文化人類学や比較行動学など様々な科目を取りながら、多角的に自分のことも知ることが出来た。様々な知識や考え方に触れて、確実に人生が豊かになった
- 社会は発達障害の生きづらさにスポットを当てたがるが、生きやすい部分もあると思う。「普通」という言葉が気になってしまうが、前向きな開き直りも大事だと感じる
- 子どもの頃にノートが取れないとだめだと言われたり、縦笛が吹けなくて留年寸前までいった。だがみんなが同じことができるわけではないし、学び方は一つではない
- 目の前にいる人に対して全力で向き合うのがADHDの人のコミュニケーションパターンだと感じる。自分も相手に対して出し惜しみしないで、一期一会の出会いを大事にした
- 一人暮らしは全部が自己責任で、思った以上に判断力がついた。片づけが苦手で、一人暮らしは苦労の連続だが、母親から「こんなに強かった?」と言われたこともある