インタビュー時年齢:46歳(2019年3月)
障害の内容:全身性の肢体不自由(脳性麻痺)
学校と専攻:大学・経済学部 (1993年度入学)
関東地方在住の男性。脳性麻痺による全身性の肢体不自由で、大学時代は歩行。その後は、電動車椅子を使用している。大学は30校ほど受けたうち、合格した1校に進学した。大学1年の時、米国留学で「障害学生」という考え方や支援サービスを知り、驚いた。在学中に他の当事者とかかわり、障害を持つ人の「教育」に関することを、一生の仕事にしようと決める。現在、日本で唯一の障害の種類を問わない全国的な当事者団体である「全国障害学生支援センター」の代表。妻と二人の子どもと暮らしている。
プロフィール詳細
広太(こうた・仮名)さんは、脳性麻痺による全身性の肢体不自由。小学校5年生頃に、当時出会った先生の影響があり、障害を持つ自分と、自分がいる環境を意識するようになった。当時は関西地方にいて当事者運動が盛んな地域だったこともあり、自分もその頃に、障害者運動に関心を持った。小・中は普通校で過ごしたが、その時は障害者運動にまつわる記事などを多く読んでいた。
高校では演劇をやっていて、高校生活をとても謳歌していたので勉強は全くしておらず、卒業してから大学受験を見据えて本格的に受験勉強を始めた。高校受験の時に受験拒否に遭ったトラウマがあり、大学受験の時には受験先に障害のことを伝えずに受験をして、合計30校ほど受けた中から受かった1校に進学した。
大学では当時、特に配慮を申請するようなことはなく、ノートは取れなかったが、授業に出席してその場で記憶することでなんとか授業についていっていた。大学では、特に語学をしっかりやりたいという思いがあったが、当時英検は2次試験でスピーキングがあり、発話がはっきりしていないため、点数が全く取れなかった覚えがある。
大学の、特に低学年では、勉強が面白くて勉強しかしていなかったように思う。1年生の夏に、3週間アメリカへ留学した。アメリカにADA(障害を持つアメリカ人法:障害を持つ人が米国社会に完全に参加することを保証する法律)があることは、それまで障害者運動の本を多く読んでいたので知っていたが、実際に行った先で、障害を持つ学生が話したことを聞き取ってタイプするサービスがあることを知り、とても驚いた。今考えると「障害学生」というのを初めて意識したのは、この時だったと思う。1年生の時の留学が非常に楽しかったので、2年生で長期の留学を目指したが、当時はTOEFL試験の配慮がなかった。自分で配慮要請をするということも思い至らず、結局マークシートは全く書けなかったので、既定の点数に足りずに留学は諦めた。
2年生の冬に阪神大震災が起き、幼少の頃を過ごした場所が崩れるのを目の当たりにした。そこで障害のある人はどんな暮らしをしているのだろうと思い、3年生の秋に父親と神戸を見に行った。また2年生と3年生の夏に、障害を持つ人の教育を考える会の合宿に参加し、当事者の方とも交流した。もともと書くことは好きで、新聞記者になりたいという思いもあったので、震災のことや、障害を持つ人の教育のことをまずは自分で書こうと思い、書き始めた。これが、現在「全国障害学生支援センター」の定期刊行誌となっている情報誌の第1号となった。また当時、障害者が東京都で初めて教育実習に出たことを知り、自分も3年生の4月から教育実習を行った。この時期色々なことが重なり、自分は障害当事者として生きていくこと、また、障害のある人の教育を一生の仕事にしていこうと決心した。
卒業が見えてきた頃、就活も一応したが、当時は情報誌を書くのに懸命だったこともあり、履歴書の書き方も分かっておらず、全部断られた。4年生の2月頃、全国障害学生支援センターの前進であるわかこま自立生活情報室を紹介され、そこが障害者向けの「大学案内」を発行していることも知った。大学卒業と同時に、当事者の仲間とともに、わかこま自立生活情報室の一部門として、当事者として障害学生を支援する「全国障害学生支援センター」の活動をスタートさせた。
自分にとって大学で学んだことの意味は、自由に学ぶことの素晴らしさや多様であることの大切さを実感できたこと。知識を得る勉強という意味では、今になってもまだ勉強したいことはあるので、十分とは言えないかもしれないが、学歴に必ずしもこだわらずに自由に学ぶことの意味を、大学時代に実感できたと思う。日本は障害のある人の学びに関しては、分厚い実践がある。これからもっと多様な障害を持つ人が学ぶことによって、日本の社会を変えていけると思う。その変えていく原動力は、何よりも、自分たちの一歩一歩の積み重ね。障害を持つ当事者の人が一歩一歩の実践を積み重ねることにおいて、全国障害学生支援センターが少しでもお手伝いできればと思い、活動を続けている。現在は、妻と二人の子どもと暮らしている。
高校では演劇をやっていて、高校生活をとても謳歌していたので勉強は全くしておらず、卒業してから大学受験を見据えて本格的に受験勉強を始めた。高校受験の時に受験拒否に遭ったトラウマがあり、大学受験の時には受験先に障害のことを伝えずに受験をして、合計30校ほど受けた中から受かった1校に進学した。
大学では当時、特に配慮を申請するようなことはなく、ノートは取れなかったが、授業に出席してその場で記憶することでなんとか授業についていっていた。大学では、特に語学をしっかりやりたいという思いがあったが、当時英検は2次試験でスピーキングがあり、発話がはっきりしていないため、点数が全く取れなかった覚えがある。
大学の、特に低学年では、勉強が面白くて勉強しかしていなかったように思う。1年生の夏に、3週間アメリカへ留学した。アメリカにADA(障害を持つアメリカ人法:障害を持つ人が米国社会に完全に参加することを保証する法律)があることは、それまで障害者運動の本を多く読んでいたので知っていたが、実際に行った先で、障害を持つ学生が話したことを聞き取ってタイプするサービスがあることを知り、とても驚いた。今考えると「障害学生」というのを初めて意識したのは、この時だったと思う。1年生の時の留学が非常に楽しかったので、2年生で長期の留学を目指したが、当時はTOEFL試験の配慮がなかった。自分で配慮要請をするということも思い至らず、結局マークシートは全く書けなかったので、既定の点数に足りずに留学は諦めた。
2年生の冬に阪神大震災が起き、幼少の頃を過ごした場所が崩れるのを目の当たりにした。そこで障害のある人はどんな暮らしをしているのだろうと思い、3年生の秋に父親と神戸を見に行った。また2年生と3年生の夏に、障害を持つ人の教育を考える会の合宿に参加し、当事者の方とも交流した。もともと書くことは好きで、新聞記者になりたいという思いもあったので、震災のことや、障害を持つ人の教育のことをまずは自分で書こうと思い、書き始めた。これが、現在「全国障害学生支援センター」の定期刊行誌となっている情報誌の第1号となった。また当時、障害者が東京都で初めて教育実習に出たことを知り、自分も3年生の4月から教育実習を行った。この時期色々なことが重なり、自分は障害当事者として生きていくこと、また、障害のある人の教育を一生の仕事にしていこうと決心した。
卒業が見えてきた頃、就活も一応したが、当時は情報誌を書くのに懸命だったこともあり、履歴書の書き方も分かっておらず、全部断られた。4年生の2月頃、全国障害学生支援センターの前進であるわかこま自立生活情報室を紹介され、そこが障害者向けの「大学案内」を発行していることも知った。大学卒業と同時に、当事者の仲間とともに、わかこま自立生活情報室の一部門として、当事者として障害学生を支援する「全国障害学生支援センター」の活動をスタートさせた。
自分にとって大学で学んだことの意味は、自由に学ぶことの素晴らしさや多様であることの大切さを実感できたこと。知識を得る勉強という意味では、今になってもまだ勉強したいことはあるので、十分とは言えないかもしれないが、学歴に必ずしもこだわらずに自由に学ぶことの意味を、大学時代に実感できたと思う。日本は障害のある人の学びに関しては、分厚い実践がある。これからもっと多様な障害を持つ人が学ぶことによって、日本の社会を変えていけると思う。その変えていく原動力は、何よりも、自分たちの一歩一歩の積み重ね。障害を持つ当事者の人が一歩一歩の実践を積み重ねることにおいて、全国障害学生支援センターが少しでもお手伝いできればと思い、活動を続けている。現在は、妻と二人の子どもと暮らしている。
インタビュー09
- 障害のことを伝えずに受験をしたら、試験終了後に「なんで障害があるのに黙って受けたんだ?」と言われたこともあった
- 高校受験の時に受験拒否に遭っており、それがトラウマで大学には障害のことを告げずに受験した。30校受けて受かった1校に進学した
- 大学で困ったのはノートが取れないこと。パソコンを使う前は記憶だけで勉強していたが、それでも当時は大学に配慮を求めるという感じではなかった
- 学部の1年生の時、語学の必修クラスの担任が留学プログラムを持ってきてくれて参加した。当時からアメリカでは障害学生に論文をタイプするサービスがあって楽しかった
- 1年生の短期留学の経験から、2年生は長期で留学しようと思っていた。TOEFLを受けたが、時間内にマークシート形式の回答用紙に回答することができず、留学は断念した
- 大学では、知識を得る勉強という意味では不十分だったかもしれないが、なにより自由に学ぶことの素晴らしさや、多様であることの大切さを実感させてもらった
- 大学生の時、視覚障害があり東京都で初めて教職実習をした人がいて、自分も教職を取ることを決めた。その時に、障害のある人の教育を一生の仕事にしようと思った