障害の内容:肢体不自由(脳性麻痺)
学校:大学
首都圏在住の女性。脳性麻痺による肢体不自由(四肢体幹機能障害)で、電動車椅子を使用。障害のない子と同じように育てたいという親の方針があり、小中高と普通学校に通い、大学はパソコンを学べる学部に進学した。大学時代は、友人との他愛ない日常生活が、本当に楽しかった思い出がある。卒業を機に実家から出る準備を始め、現在は24時間ヘルパーを付けて一人暮らしをしている。
プロフィール詳細
愛子(あいこ・仮名)さんは、脳性麻痺による肢体不自由で、四肢と体幹に機能障害があり、電動車椅子を使っている。母親が普通の子と同じように育てたいと思っていたため、小・中・高と普通学校で過ごした。中学でいじめを受け辛いこともあったが、傷つきやすいが回復も早い子ども時代にそれらを経験したことは、自分には良かったと感じている。高校では、愛子さんが何かを「やってほしい」と言うまでやってもらえない環境だったため、自分のできないことを知り、人に説明するために自分を理解することを無意識に行えた時期だった。また高校は中学とは違って特別扱いもされず、他の生徒と同じように扱われて、悪いことをするとひどく怒られる経験もした。普通学校で育って辛いこともあったが、早いうちに、自分を知り、周囲に自分のことを説明しながら自分で決める経験ができたことには、とても感謝している。
高校では周囲に進学する人が多く、愛子さんも自然と、大学進学を考えた。もともとパソコンが好きで、プログラミングに関心があり、また一般企業に就職しようと思っていたため、パソコンに関することが学べて、自宅から通える大学に推薦入試で入った。愛子さんはそれまで障害のある人とのかかわりがなかったため、配慮を要請するという発想自体がなく、大学では身の回りのことは自分でするのが当たり前で、できないことは友人に頼んでいた。そこに大人は介入してこないし、大学の職員に気を使うこともなく、学生生活はとても自由で、「守られない自分」を満喫できた、とても楽しい時間だった。大学に入学して2日目に、一緒にお弁当を食べてもらおうと声をかけた友人とは、今も仲が良い。いま介助者を伴って遊びに行っても、その友人は介助者よりも愛子さんのことを理解してくれているところがあってとても嬉しいし、そういう友人に巡り合えた大学時代はかけがえのないものだった。
大学と唯一揉めたのは3年次のゼミ選択で、手を使う実験系のゼミは難しいと言われて、他に移った。悔しいと思ったし、障害のある人たちと繋がっていたら配慮を求めていいと知ることができたかもしれないが、当時はそれを知らなかったし、悔しい思いをしたからこそ、今感じることもあると思っている。
周囲が就職をするタイミングで愛子さんも就職を考えていたが、就職しても自分は母親がいないと何もできないと思い、まず親から離れて自立する生活を整えようと、それまで縁がなかった福祉の世界に飛び込んだ。自分のことが生きがいのようになっていた母親は、最初は困ったと思うし、母親に分かってもらうのに喧嘩もした。だが一人暮らしを初めて3年ほどして、母親に、「あなたは、私の所にいるより外に出て良かったわね」と言ってもらって、親孝行ができたと思い、とても嬉しかったのを覚えている。今では母親の話を自分が聞いてあげるような関係。愛子さんは妹ともとても仲がよく、頻繁にLINEでやりとりしている。
愛子さんは自分が障害者であることをこれまでほとんど意識せずに過ごしてきたため、同じ障害の人とピアの立場でかかわることや、障害者のエンパワメントをしようという発想もなかった。健常者の中で頑張りたかったという思いもあった。いま障害のある人とかかわるようになっているが、人は、必要なタイミングで必要な人に会うようにできているように感じている。
今は自分に障害があるため話を聞かせてほしいと言われることがあるが、将来は、障害者というアイデンティティを離れて、「あなた、面白いから」という理由で話したいと思う。また、障害学生が本当の意味で障害のない学生と同等になったら、自分が話す必要もなくなるので、そうなったらお花屋さんでもやりたいと思っている。
高校では周囲に進学する人が多く、愛子さんも自然と、大学進学を考えた。もともとパソコンが好きで、プログラミングに関心があり、また一般企業に就職しようと思っていたため、パソコンに関することが学べて、自宅から通える大学に推薦入試で入った。愛子さんはそれまで障害のある人とのかかわりがなかったため、配慮を要請するという発想自体がなく、大学では身の回りのことは自分でするのが当たり前で、できないことは友人に頼んでいた。そこに大人は介入してこないし、大学の職員に気を使うこともなく、学生生活はとても自由で、「守られない自分」を満喫できた、とても楽しい時間だった。大学に入学して2日目に、一緒にお弁当を食べてもらおうと声をかけた友人とは、今も仲が良い。いま介助者を伴って遊びに行っても、その友人は介助者よりも愛子さんのことを理解してくれているところがあってとても嬉しいし、そういう友人に巡り合えた大学時代はかけがえのないものだった。
大学と唯一揉めたのは3年次のゼミ選択で、手を使う実験系のゼミは難しいと言われて、他に移った。悔しいと思ったし、障害のある人たちと繋がっていたら配慮を求めていいと知ることができたかもしれないが、当時はそれを知らなかったし、悔しい思いをしたからこそ、今感じることもあると思っている。
周囲が就職をするタイミングで愛子さんも就職を考えていたが、就職しても自分は母親がいないと何もできないと思い、まず親から離れて自立する生活を整えようと、それまで縁がなかった福祉の世界に飛び込んだ。自分のことが生きがいのようになっていた母親は、最初は困ったと思うし、母親に分かってもらうのに喧嘩もした。だが一人暮らしを初めて3年ほどして、母親に、「あなたは、私の所にいるより外に出て良かったわね」と言ってもらって、親孝行ができたと思い、とても嬉しかったのを覚えている。今では母親の話を自分が聞いてあげるような関係。愛子さんは妹ともとても仲がよく、頻繁にLINEでやりとりしている。
愛子さんは自分が障害者であることをこれまでほとんど意識せずに過ごしてきたため、同じ障害の人とピアの立場でかかわることや、障害者のエンパワメントをしようという発想もなかった。健常者の中で頑張りたかったという思いもあった。いま障害のある人とかかわるようになっているが、人は、必要なタイミングで必要な人に会うようにできているように感じている。
今は自分に障害があるため話を聞かせてほしいと言われることがあるが、将来は、障害者というアイデンティティを離れて、「あなた、面白いから」という理由で話したいと思う。また、障害学生が本当の意味で障害のない学生と同等になったら、自分が話す必要もなくなるので、そうなったらお花屋さんでもやりたいと思っている。
インタビュー16
- 内申点は全ての科目の平均点なので、車椅子の自分は体育がネックだった。結局、体育は履修の権利を放棄して、推薦をもらった(テキストのみ)
- 自分は脳性まひの障害者で介助が必要で、いずれ福祉とはかかわらざるを得ないと思っていたので、大学は全然関係なく好きなことをしようと思った(テキストのみ)
- 実は行きたい大学があったが、当時は通学にヘルパーが認められておらず、親が送り迎えできる範囲で大学を選んだ(テキストのみ)
- 入ろうと思っていた研究室は実験が多く、実験をできるのか、母親が介助をするにしても専門的な知識がないと難しいと言われ、一人でできることに転向した(テキストのみ)
- 試験の変更やノートテイクをつけてもらったが、それ以外日ごろのことは友人にやってもらっていた。「大人に守られない自分」を満喫できた4年間だった(テキストのみ)
- とにかく無理しないでいいよと伝えたい。自分の思う通りに、勉強するなり遊ぶなりして、苦しくないように過ごせばいいのではないかと思う(テキストのみ)
- 当時は大学の中で介助者をつけるという発想がなかったので、友達に頼みながら自分でするのが自然だった。頼む時は、一人に依存しすぎないことを心がけていた(テキストのみ)
- 10人くらいでトランプをするようなこともあり、大人が介在しない場を心から楽しんだ。小さなことが楽しいと思えたのは、障害学生ならではかなと思っている(テキストのみ)
- 大学卒業後に一人暮らしを始めたが、「めちゃくちゃ生きている」と実感する。身内に面倒を見てもらったり、施設に入ったりしていたのでは得難い感覚だ(テキストのみ)