インタビュー時年齢:29歳(2019年5月)
障害の内容:聴覚障害(難聴)
学校と専攻:大学・人間科学部(2008年度入学)
首都圏在住の女性。小学校2年生で難聴と診断された。高校までは九州地方で、両親と妹二人の5人家族で育った。大学入学を機に上京し、初めて聞こえない人と交流して手話を覚えた。大学ではライフセービングに熱中した。大学卒業後、専門学校で言語聴覚士の資格を取り、現在は大学で障害学生支援の仕事をしている。夫と息子と3人暮らし。
プロフィール詳細
香奈(かな・仮名)さんは、九州地方出身。保育園の頃から右耳が聞こえていないことを感じていたが、そういうものだと思い、そのまま過ごしていた。小学校2年生で聞こえないことを親に伝え、初めて受診をしたら、右は90db、左は45dbで難聴であることが分かった。そこから緩やかに進行して、現在右は110db以上で測定できず、左が90dbくらいになっている。
小中高は普通校で過ごした。難聴が分かって定期的に受診をするなかで、言語聴覚士の先生と出会った。それまで香奈さんは何か自分にできないことがあると、聞こえなくてできないのか、能力がなくてできないのかわからなかったが、その先生に、自分が苦手なことについて、「やっぱりこれは、聴こえないと難しいことだよね」と教えてもらった。それまで自分は、「聞こえなくても、頑張って聞かなくては」と思っていたが、そんなに頑張らなくてもいいということを先生に教えてもらい、心が軽くなった。その経験から言語聴覚士に憧れを抱き、将来は言語聴覚士になることを決めた。
大学で言語聴覚士の資格を取る選択肢もあったが、その前に関連分野を学ぼうと、上京して福祉系の学部に入学した。大学時代はサークルで、海辺で事故が起きないよう活動するライフセービングに熱中した。サークルを通じての友人や先輩・後輩とのかかわりはとても楽しく、その交友関係は今も続いている。
大学卒業後に言語聴覚士の専門学校に進学したが、ここで香奈さんは、これまで自分が、自分の聞こえと向き合ってこなかったことに気づいた。特に実習は、自分の聞こえについて深く理解する機会になった。例えば大学病院の聴力検査の場での実習では、「どのような状況で聞こえないか、周囲はどうしたらいいか」を記した自分の「取扱説明書」を書けるくらいまで自分の聞こえを理解し、また患者さんとかかわることを通じて、自分は現場で何ができて、何ができないかを考えさせられた。さらに、ろう学校での実習では、自分が聞こうと頑張らなくても、聞こえないままの状態でこんなに安心できる環境があることを初めて知る機会にも恵まれた。
専門学校卒業後は、聞こえない子どもとかかわる仕事をしたかったが、子どものSOSに気付けないリスクもあり、自分のやりたいこととできることの間で揺れた。専門学校の先生から大学の障害学生支援の仕事を提案され、香奈さん自身も大学で支援を受けたことが「支援に関する原点」だと思っているので、まずはその仕事からと思い、現在も続けている。
香奈さんにとって聞こえに関する大きな転機は、まず大学入学後に手話を覚えたこと。聞こえない人に会って共感し、手話を覚えていくうちに、「おしゃべり」を楽しめるようになった。聞こえない友人もたくさんできた。またもう一つより大きな転機は、言語聴覚士の専門学校で自分の聞こえを客観的に見られるようになったこと。専門学校時代の友人は、香奈さんがどんな時に聞こえないかをよく理解してくれて、細かいフォローはとてもありがたいし、一緒にいて居心地がいい。
育った家族は本当に仲が良く、幼い頃は祖母の家も近く、水産加工業を営む両親と3人姉妹で楽しく過ごしていた。家族で聞こえないのは自分だけだったが、一緒に暮らしている時は香奈さん自身も自分が聞こえないことをどのように家族に説明していいかわからず、親もどうしてあげたらよいかわからなかったと思う。だが専門学校時代に自分の聞こえの「取扱説明書」を親に見せた時、理解してもらえたかなと思った。
夫とは共通の友人を介して知り合い、1年半前に結婚した。夫も聞こえず、自分と共通点が多い。現在は首都圏に夫と4か月の息子と暮らしている。
小中高は普通校で過ごした。難聴が分かって定期的に受診をするなかで、言語聴覚士の先生と出会った。それまで香奈さんは何か自分にできないことがあると、聞こえなくてできないのか、能力がなくてできないのかわからなかったが、その先生に、自分が苦手なことについて、「やっぱりこれは、聴こえないと難しいことだよね」と教えてもらった。それまで自分は、「聞こえなくても、頑張って聞かなくては」と思っていたが、そんなに頑張らなくてもいいということを先生に教えてもらい、心が軽くなった。その経験から言語聴覚士に憧れを抱き、将来は言語聴覚士になることを決めた。
大学で言語聴覚士の資格を取る選択肢もあったが、その前に関連分野を学ぼうと、上京して福祉系の学部に入学した。大学時代はサークルで、海辺で事故が起きないよう活動するライフセービングに熱中した。サークルを通じての友人や先輩・後輩とのかかわりはとても楽しく、その交友関係は今も続いている。
大学卒業後に言語聴覚士の専門学校に進学したが、ここで香奈さんは、これまで自分が、自分の聞こえと向き合ってこなかったことに気づいた。特に実習は、自分の聞こえについて深く理解する機会になった。例えば大学病院の聴力検査の場での実習では、「どのような状況で聞こえないか、周囲はどうしたらいいか」を記した自分の「取扱説明書」を書けるくらいまで自分の聞こえを理解し、また患者さんとかかわることを通じて、自分は現場で何ができて、何ができないかを考えさせられた。さらに、ろう学校での実習では、自分が聞こうと頑張らなくても、聞こえないままの状態でこんなに安心できる環境があることを初めて知る機会にも恵まれた。
専門学校卒業後は、聞こえない子どもとかかわる仕事をしたかったが、子どものSOSに気付けないリスクもあり、自分のやりたいこととできることの間で揺れた。専門学校の先生から大学の障害学生支援の仕事を提案され、香奈さん自身も大学で支援を受けたことが「支援に関する原点」だと思っているので、まずはその仕事からと思い、現在も続けている。
香奈さんにとって聞こえに関する大きな転機は、まず大学入学後に手話を覚えたこと。聞こえない人に会って共感し、手話を覚えていくうちに、「おしゃべり」を楽しめるようになった。聞こえない友人もたくさんできた。またもう一つより大きな転機は、言語聴覚士の専門学校で自分の聞こえを客観的に見られるようになったこと。専門学校時代の友人は、香奈さんがどんな時に聞こえないかをよく理解してくれて、細かいフォローはとてもありがたいし、一緒にいて居心地がいい。
育った家族は本当に仲が良く、幼い頃は祖母の家も近く、水産加工業を営む両親と3人姉妹で楽しく過ごしていた。家族で聞こえないのは自分だけだったが、一緒に暮らしている時は香奈さん自身も自分が聞こえないことをどのように家族に説明していいかわからず、親もどうしてあげたらよいかわからなかったと思う。だが専門学校時代に自分の聞こえの「取扱説明書」を親に見せた時、理解してもらえたかなと思った。
夫とは共通の友人を介して知り合い、1年半前に結婚した。夫も聞こえず、自分と共通点が多い。現在は首都圏に夫と4か月の息子と暮らしている。
インタビュー19
- 中学のとき初めて言語聴覚士の人に会った。それまで自分に能力がなくてできないのか聞こえなくてできないのか分からなかったが、その人と話し、心が軽くなった
- 聴覚障害があるが、高校まで普通学校で、配慮や支援について何も知らなかった。センター入試で初めて配慮のことを知って申請し、個別の試験でも別室受験などの配慮を受けた
- 入学後は配慮なしで授業を受けるものだと思っていたが、たまたま入学手続きの書類の中に障害学生支援室のパンフレットを見つけ、母親が問い合わせて、大学側と面接をした
- ノートテイクは自分が申請した授業に全てついた。支援者は基本的に2名だが、ゼミで両側から支援者に挟まれるとゼミ生と壁ができるので、場所を工夫した
- 実習は全部で6カ所回った。最初に行った総合病院の耳鼻科では、自分の聴力検査をしたり、補聴器を試したりして、自分の「聞こえの紹介状」を作れるほど様々な体験をした(音声のみ)
- ライフセービングに熱中し、夏は毎日海水浴場の監視活動、それ以外の時期も毎週末練習で海に行っていた。トランシーバーでのやりとりは難しかったが、できる範囲で頑張った
- 最近は支援体制が整いつつあるが、支援があるだけでは自分の能力は発揮できないので、用意された支援で満足せずに、自分に必要な支援を伝えていってほしい
- 周囲から「○○さんは聞こえるし話せる」と見られることもあり、自分は聴覚障害のイメージから離れていると思う。だが自分も困ることはあり、個として見てほしいと感じる
- 大学に入って、手話を覚えたことは衝撃的だった。また、自分と同じような境遇の、聞こえる人たちの中で育った聞こえない人に会えて、自分だけではないと思い、嬉しかった