インタビュー時年齢:28歳(2019年6月)
障害の内容:聴覚障害(難聴)
学校と専攻:大学・工学部(2009年度入学)
首都圏在住の男性。先天性の難聴。小学校は普通学校、中高とろう学校へ通った。大学は、ドラえもんを作りたいと工学部へ進学した。学部では情報保障がなかったが、聞こえない仲間との交流が楽しかった。大学院は聴覚障害学生が多い所へ進学し、研究を通じてディスカッションなども学ぶことができた。現在、メーカーで働き始めて5年目になる。
プロフィール詳細
剛(つよし・仮名)さんは、関東地方出身。先天性の難聴。育った家族は両親と妹の4人家族で、自分以外はみんな聞こえており、家族の中では声でコミュニケーションをとってきた。小学校は普通学校へ通ったが、高学年になって周りの話す内容が複雑になると理解できないことも増え、中学になったら英語も始まるので自分でろう学校を選び、高校卒業までろう学校で過ごした。高校2年の夏休みに、大学の先生が高校に来てロボット体験の授業をしてくれたのが面白く、もともとドラえもんが好きだったこともあって、自分もロボットを作る人になろうと工学部へ進学した。
大学からは、入学後の情報保障はないと言われ、自分もそれまで情報保障の重要性を感じていなかったのでそれでもいいと思っていた。だがいざ授業が始まってみると、自分の専攻の数学と物理は教科書を読んで勉強することができたが、先生が考えを話すような教養科目は授業についていけなかった。ある時、先生が口頭で中間テストをすると伝えた科目があり、自分はそれが聞こえておらず、抜き打ちテストになって、点数が取れなかった。試験があることを知っていれば対策できた内容で、悲しい思いになり、その時初めて、自分は聞こえないことで困ることがあるかもしれないと感じた。その後大学に相談したが、結局ノート作成はつかず、大学に働きかけるのも疲れてしまい、もう仕方ないという思いだった。その後は、授業が聞こえないということもあり、授業中は他の授業の内職に充てたり、終わったら友人と遊んだりとあまり真面目な学生ではなかった。大学4年でドラえもんの頭(今でいうAI)を作るような研究室を選んだ。そこは「自分で考えて自分で作る」という要素が強く、剛さんは勉強の意味がやっと分かり、それまでは受動的に勉強していたが、研究の基礎づくりをする必要性を強く感じたので、それ以降は勉強を能動的に行うようになった。
剛さんは学部時代に、大学を超えた聞こえない学生同士の集まりに出会った。理系の聴覚障害の人は数が少なく、研究に関して話ができる人が身近にいないという似た悩みを抱えた人もいたため、何人かの仲間と、飲みながら自分の研究をプレゼンするオフ会を立ち上げた。剛さん自身も研究室で、他の人からの質問に答えられないことがあり、それは自分の知識が足りないのか聞こえないからなのかが分からなかったが、聞こえない学生同士ではコミュニケーションが問題にならないため、この場を通じて自分に足りないものを理解し、議論の練習もすることができた。本格的な手話も、この仲間を通じて覚えた。結局この会は大学院の時も合わせて5回ほどオフ会に参加し、それ以外はチャットでよく話した。今でもそこで会った友人とは、キャンプへ行くなど交流が続いている。
学部の頃は、あまりにも情報がなさ過ぎて自分が成長できなかったように感じたので、大学院は、聴覚障害者が多い所に進学をした。聞こえない人も多く、先生も手話を使うので、周りの話が分かり、研究が楽しかった。大学院は、聞こえないというバリアがない環境だったので、他の人の説明方法を見て学んだり、自分に何が足りないかをしっかり考えられる時間になった。
修士1年でインターンシップに行った企業があり、その時、筆談でのコミュニケーションを依頼したところ、社員の方が嫌な顔をせずに対応してくれたので、障害者に理解があると思って、その企業に就職をした。入社してからは、聞こえないことへの配慮についてはしつこく説明はしたが、説明の仕方は、聴覚障害の学生と交流することや、大学院で手話を使って議論をしたことでずいぶん鍛えられていた。現在も、その企業で働いており、今年5年目になっている。
大学入学と同時に一人暮らしを始めて実家を出たが、離れてからも両親には、身近なことをはじめいろいろ相談をしている。
大学からは、入学後の情報保障はないと言われ、自分もそれまで情報保障の重要性を感じていなかったのでそれでもいいと思っていた。だがいざ授業が始まってみると、自分の専攻の数学と物理は教科書を読んで勉強することができたが、先生が考えを話すような教養科目は授業についていけなかった。ある時、先生が口頭で中間テストをすると伝えた科目があり、自分はそれが聞こえておらず、抜き打ちテストになって、点数が取れなかった。試験があることを知っていれば対策できた内容で、悲しい思いになり、その時初めて、自分は聞こえないことで困ることがあるかもしれないと感じた。その後大学に相談したが、結局ノート作成はつかず、大学に働きかけるのも疲れてしまい、もう仕方ないという思いだった。その後は、授業が聞こえないということもあり、授業中は他の授業の内職に充てたり、終わったら友人と遊んだりとあまり真面目な学生ではなかった。大学4年でドラえもんの頭(今でいうAI)を作るような研究室を選んだ。そこは「自分で考えて自分で作る」という要素が強く、剛さんは勉強の意味がやっと分かり、それまでは受動的に勉強していたが、研究の基礎づくりをする必要性を強く感じたので、それ以降は勉強を能動的に行うようになった。
剛さんは学部時代に、大学を超えた聞こえない学生同士の集まりに出会った。理系の聴覚障害の人は数が少なく、研究に関して話ができる人が身近にいないという似た悩みを抱えた人もいたため、何人かの仲間と、飲みながら自分の研究をプレゼンするオフ会を立ち上げた。剛さん自身も研究室で、他の人からの質問に答えられないことがあり、それは自分の知識が足りないのか聞こえないからなのかが分からなかったが、聞こえない学生同士ではコミュニケーションが問題にならないため、この場を通じて自分に足りないものを理解し、議論の練習もすることができた。本格的な手話も、この仲間を通じて覚えた。結局この会は大学院の時も合わせて5回ほどオフ会に参加し、それ以外はチャットでよく話した。今でもそこで会った友人とは、キャンプへ行くなど交流が続いている。
学部の頃は、あまりにも情報がなさ過ぎて自分が成長できなかったように感じたので、大学院は、聴覚障害者が多い所に進学をした。聞こえない人も多く、先生も手話を使うので、周りの話が分かり、研究が楽しかった。大学院は、聞こえないというバリアがない環境だったので、他の人の説明方法を見て学んだり、自分に何が足りないかをしっかり考えられる時間になった。
修士1年でインターンシップに行った企業があり、その時、筆談でのコミュニケーションを依頼したところ、社員の方が嫌な顔をせずに対応してくれたので、障害者に理解があると思って、その企業に就職をした。入社してからは、聞こえないことへの配慮についてはしつこく説明はしたが、説明の仕方は、聴覚障害の学生と交流することや、大学院で手話を使って議論をしたことでずいぶん鍛えられていた。現在も、その企業で働いており、今年5年目になっている。
大学入学と同時に一人暮らしを始めて実家を出たが、離れてからも両親には、身近なことをはじめいろいろ相談をしている。
インタビュー21
- ロボットを作ってみたいと思い、ロボットを作るにはどうしたらいいかと高校の先生に聞いたら、まずは大学に行って研究室に入るのがいいとアドバイスをもらった(筆談)
- 試験を口頭で予告されると対策できないので、ノートテイクをつけてほしいと言ったが、大学にノウハウがなく自分もどう動くべきかわからず、つけてもらえなかった(筆談)
- 大学には、受験の前に聞こえないことを伝えた。大学からは情報保障はないと言われたが、それでもいいと言って入学したところ、後から困る羽目になった(筆談)
- 新入生が買ったパソコンの使い方を教えるバイトを短期で経験した。学生が教室に集まり、ついていけない人をフォローする内容で、聞こえないことは特に困らなかった(筆談)
- 大学院2年目に、AI系の研究開発をやりたいと思って就活を始めた。一般向けの説明会より1対1で話が聞けそうな障害者向けの説明会に絞って情報を集めていた(筆談)
- 大学院1年の時にインターンに行った会社で、筆談でのコミュニケーションを希望したところ、全く嫌な顔もせず受け入れてくれたので、改めて試験を受けて入社した(筆談)
- 障害学生自身があまりがんばらなくても、情報保障を得られるようにしてほしい。学生は、勉強なり遊びなり本来使うべき所にエネルギーを使えたらいいと思う(筆談)
- 宅急便が来たのが分からず困ったが、役所に相談してチャイムと連動して光るランプを教えてもらい解決した。疲れてやかんを火にかけたまま寝たという失敗もあった(筆談)
- 研究では他の人同士の議論からも重要な気づきが得られるはずだが、自分にもわかるように話してほしいとは頼みにくくて、他の大学の耳の聞こえない友達に相談していた
- 耳の聞こえない学生同士でも福祉系学部に通う人が多くて理系はボッチ扱いされるので、チャットでやり取りしたり、年に2回くらい集まって自分の研究について議論したりした