インタビュー時年齢:31歳(2019年6月)
障害の内容:肢体不自由(脳性麻痺)・言語障害
学校と専攻:教養学部(2009年度入学)
首都圏在住の男性。脳性麻痺による肢体不自由で、言語障害がある。介助用車椅子で生活している。子どもの頃は、九州地方で育った。小中は普通学校。高校が通信制で、そこで自分の時間が持てたことが新鮮だったので、大学も通信制を選び、人文学を専攻した。大学では芸術系の科目がとても面白かった。趣味の映画やライブに行くためにヘルパーを探し、そのことがきっかけで、現在は24時間のヘルパーを付けて一人暮らしをしている。
プロフィール詳細
将司(まさし・仮名)さんは、関東地方在住の男性。出身は九州地方で、両親と弟の4人家族で育った。当時は街で自分以外の障害者を見たことがなく、親も最初は普通学校に入れるのに躊躇していた。だが1年だけ行った保育園で、将司さんは他の子と泥まみれになって遊んだり、友人と話すことで以前より言葉が伝わりやすくなりできることがたくさん増えたので、その1年が自信となって、自分で希望して、小中は普通学校に通った。小中学校が楽しかったのでそのまま高校に進学しようと思っていたが、設備の面で入学拒否に遭い、高校は通信制に進学した。高校入学当初は、今までとの生活の違いに不安や焦りがあったが、徐々に、自分の時間ができることがとても新鮮だと思うようになった。そこで文章を書くことや、カメラを使うなど自分なりの楽しみと出会って、高校卒業後はそちらを突き詰めたいと思った。だが専門学校も設備面などでバリアがあり、何年もそこで学んだあとに身につかなかったらリスクが大きいと思って、専門学校ではなく大学で学ぶことを決めた。全日制の大学で学ぶ選択肢もあったが、高校時代に通信制で学び、大学でも自分の時間を大切にする感覚を持ちながら学びたいと思って、大学も通信制を選択した。
将司さんはもともと文章で表現することに関心が強かったが、それには自分の障害が関係していた。将司さんには言語障害があり、もちろん親や友人は根気強く自分の発言に耳を傾けてくれるが、やはり普段の生活の中で自分の伝えたいことをすべて伝えるのは難しいと、いつもどこかで諦めていた。また、自分で文章を書く時は人に手伝ってもらわないといけないため、書いたことが人に筒抜けで、プライバシーは守られないという状態だった。だが小学5年生頃からパソコンを使うようになり、一人で好きな時に自由にものを考え、それを書いて表現できることに魅力を感じて、中学生くらいからは現代詩や俳句、短歌で自分を作るようになった。ものを書いて表現することは、伝えることを諦めていた部分を外に表すことであり、将司さんにとって大きな喜びだった。
このように文章を書くことに興味があったので、大学での専攻は人文学を選んだ。授業は基本的にインターネットやテレビでの放送で行われ、その後、集中的にスクーリングに通って、レポートを提出する形式だった。授業の中で、特に将司さんの関心にぴったりだったのは、芸術系の科目だった。西洋絵画の歴史や、当時の人々の文化や思想を探求することはとても面白く、ここで学んだことは、自分の表現に還元したいと思っていた。またスクーリングでは、世代が違う人や、社会人経験がある人と交流することができ、それも面白かった。
両親は、幼いころから将司さんの意思をまるごと尊重してくれた。最初母親は、障害を持って生んでしまったことを申し訳なく思っていたようだが、将司さんが普通校で健常の子と一緒に楽しく遊んでいるのを見て、だんだんその思いも薄れていっていたように思う。父親も、将司さんを学校以外の様々なところに連れ出してくれて、たくさん遊んでいい友達を作れと言ってくれた。また弟とも、いつも仲良く遊んでいた。
中学時代から映画や音楽が好きだったが、高校で時間が出来て、それらに時間を割くようになり、大学時代には親に気兼ねなく映画やライブに行きたいと思って、ヘルパーを使い始めた。そのことがきっかけで、また自分も親もお互いに自分の時間を持てたらと思うようにもなり、大学時代に一人暮らしをする準備を始めた。一人暮らしの準備の際、役所との交渉や不動産屋に断られ続けることにとても凹んだが、その時に初めて出会った自分以外の障害当事者の人や、ヘルパーに励まされて準備を続け、5年前から一人暮らしを続けている。
【備考:インタビューの方法について】
インタビューではヘルパーが1名つきました。将司さんが話された内容について、ヘルパーが直後に同じ内容を繰り返す形でインタビューを行っています。
将司さんはもともと文章で表現することに関心が強かったが、それには自分の障害が関係していた。将司さんには言語障害があり、もちろん親や友人は根気強く自分の発言に耳を傾けてくれるが、やはり普段の生活の中で自分の伝えたいことをすべて伝えるのは難しいと、いつもどこかで諦めていた。また、自分で文章を書く時は人に手伝ってもらわないといけないため、書いたことが人に筒抜けで、プライバシーは守られないという状態だった。だが小学5年生頃からパソコンを使うようになり、一人で好きな時に自由にものを考え、それを書いて表現できることに魅力を感じて、中学生くらいからは現代詩や俳句、短歌で自分を作るようになった。ものを書いて表現することは、伝えることを諦めていた部分を外に表すことであり、将司さんにとって大きな喜びだった。
このように文章を書くことに興味があったので、大学での専攻は人文学を選んだ。授業は基本的にインターネットやテレビでの放送で行われ、その後、集中的にスクーリングに通って、レポートを提出する形式だった。授業の中で、特に将司さんの関心にぴったりだったのは、芸術系の科目だった。西洋絵画の歴史や、当時の人々の文化や思想を探求することはとても面白く、ここで学んだことは、自分の表現に還元したいと思っていた。またスクーリングでは、世代が違う人や、社会人経験がある人と交流することができ、それも面白かった。
両親は、幼いころから将司さんの意思をまるごと尊重してくれた。最初母親は、障害を持って生んでしまったことを申し訳なく思っていたようだが、将司さんが普通校で健常の子と一緒に楽しく遊んでいるのを見て、だんだんその思いも薄れていっていたように思う。父親も、将司さんを学校以外の様々なところに連れ出してくれて、たくさん遊んでいい友達を作れと言ってくれた。また弟とも、いつも仲良く遊んでいた。
中学時代から映画や音楽が好きだったが、高校で時間が出来て、それらに時間を割くようになり、大学時代には親に気兼ねなく映画やライブに行きたいと思って、ヘルパーを使い始めた。そのことがきっかけで、また自分も親もお互いに自分の時間を持てたらと思うようにもなり、大学時代に一人暮らしをする準備を始めた。一人暮らしの準備の際、役所との交渉や不動産屋に断られ続けることにとても凹んだが、その時に初めて出会った自分以外の障害当事者の人や、ヘルパーに励まされて準備を続け、5年前から一人暮らしを続けている。
【備考:インタビューの方法について】
インタビューではヘルパーが1名つきました。将司さんが話された内容について、ヘルパーが直後に同じ内容を繰り返す形でインタビューを行っています。
インタビュー22
- 高校卒業時には、文章を書いたりカメラで映像を撮りたいと思ったが、バリアフリーでない専門学校で、満足に学べなかったら困ると思った
- 面接では最初に自分で話し、言語障害のためにうまく伝わらない部分をパソコンで入力して伝えた
- 高校受験の時に受験した高校から入学拒否に遭い、訴えるようなエネルギーもその時はなかったので、通信制の高校を選んだ(次のクリップに続く)
- 高校3年間通信制で学び、その時に自分の時間を大切にするという感覚を身に付け、これも悪くないと思って大学も通信制に決めた
- 高校で普通校に行っていた時は、周りに合わせるので精一杯だった。大学では自分で時間を作って学ぶことで、自分が興味のあることや好きなことを自覚することが出来た
- 大学以前は、健常者に合わせたカリキュラムの中で遅れたらいけないと思っていた。大学は自分で学んでいく場なので、障害のある人は自分らしさを見つめ直せると思う
- 自分の事業所のヘルパーは、指示なしでは動いてはいけないが、最初は指示の出し方もわからなかった。徐々に自分にできることが増え、実家では感じなかった満足感を感じる
- それまでは、学校でも人に負けたくないという意地があったが、障害のある他の人に会って人それぞれの頑張り方があることを知ったことで、自分自身をしっかり見つめ直せた
- スクーリングの際に会った人たちは年上が多く、自分が車椅子なので話しかけてくれるようなことがあった。年上の人から人生経験などを聞けたのが良かった
- 子どもの頃は、親も自分もひとりの時間が全く持てず、それが10代半ばくらいでだんだん辛くなり、親と離れて暮らしたいという気持ちが芽生えていった
- 当時は24時間ヘルパーをつけて一人暮らしをしている人も少なく、役所との交渉も大変だった。不動産屋で断られるととても落ち込んだが、周囲の人にとても励まされた