インタビュー時年齢:34歳(2019年7月)
障害の内容:視覚障害(全盲)
学校と専攻:大学・社会福祉(2003年度入学)
中部地方在住の男性。生まれつき弱視で、小学校は普通学校に入学し、10歳で全盲になったため、5年生で盲学校へ転校。その後、高校卒業まで盲学校で過ごした。大学は福祉系に進学し、実習等を経て社会福祉士の資格を取得した。小6の時に出会って続けてきた和太鼓を仕事にする傍ら、社会福祉士の資格を活かして講演活動を行っている。
プロフィール詳細
亮太(りょうた・本名)さんは、中部地方出身。育った家族は、祖母と両親、兄の5人家族。先天性の弱視で、小学校は弱視学級のある普通学校へ入学したが4年生の時に網膜剥離で失明してしまった。見えなくなったことは大きなショックで、周りの友人にきちんとお別れもせず5年生で盲学校へ転校した。盲学校には視覚障害だけではなく知的障害を併せ持つ人が多くいて最初は戸惑ったが、次第に重度の知的障害を持つ人と友達になった。中学の義務教育終了後について、視覚障害しかない自分は進学先の選択肢があったが、重度の知的障害を持つ友人は進学の道がなく、施設に空きがあるかどうかで行き先が決まっていた。また当時亮太さんは、一緒に出掛けるとその友人たちが周りから奇異な目を向けられるような経験もしていた。そんな現象に関して、なぜ社会では障害を持つ人に奇異な目が向けられるのか興味もあり、同時に自分の友達が奇異な目を向けられることに根底的には非常に不愉快だという思いもあって、自分が障害を持つ友人たちに何ができるだろうかと考えて、中学の頃から将来は社会福祉を勉強することを決めていた。高校進学後もその思いは揺らがなかった。
大学を決めるにあたっては、社会福祉を学べるところで、高校時代にお世話になった先生から亮太さんの雰囲気に合うと言われた首都圏の大学に進学し、入学と同時に一人暮らしを始めた。入学後は大学から、何か要望などがあればすぐに言ってほしいと言われ、快適な大学生活だった。授業では、事前にプリントをメールで送ってもらったり、試験の内容や形式を調整してもらうなどのサポートを受けていた。社会福祉士の実習に関しては、亮太さんが1年生の頃から大学で検討されていたが、実際受け入れ先を探すことは難航した。だが亮太さんは、精一杯やる気を見せて、実習先の信頼を勝ち取ろうと努力をして、多くの方のサポートもあって、結果的には非常に充実した実習時間を過ごすことができた。
亮太さんは小6の時に盲学校で和太鼓と出会った。失明したことの一番の辛さは、見えないことで自分の存在に確証を持てずにいたことだったが、和太鼓は大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響くという手ごたえがあり、音楽の授業で和太鼓をした時に「これだ」と特別な感覚を持ったのを記憶している。高校時代には、地元での活動や学校での部活、学校を通じて会った方からの個人指導で太鼓を続けた。大学2年生でプロの演奏を見た時に突然、「同じフィールドで戦ってみたい」と思った。当時は、福祉領域の授業で障害当事者の話を聞き感銘を受け、自分自身も失明をした時の体験を当事者として話していたこともあって、今後も自分の体験を話していきたいと思っていた時期だった。だが真面目にその話だけをするのではなく、和太鼓があれば、音楽のフィールドにいる人たちに対して「広く柔らかく」当事者体験や福祉の話を伝えられるのではないかと感じ、自分の中ですべてがつながって、和太鼓奏者になることを決めた。
大学卒業後すぐから、比較的順調に和太鼓の演奏で収入を得られるようになった。だが3年ほどして自分の仕事の仕方に漠然と疑問を持っていた頃、たまたま知り合いの縁でアメリカに演奏旅行に行き、それがきっかけで広い視野を持ちたいと思って、2011年に奨学金を得て障害学を学ぶために渡米した。当初は音楽活動と研究活動を両立したいという思いもあったが、実際には英語での授業やディスカッションが非常に難しいまま期限の1年が経ってしまい、自分にとっては初めてというほどの大きな挫折だった。だがアメリカの地で暮らしたことは、かけがえのない豊かな経験を積めたと思っている。帰国後はまた演奏や講演活動を継続し、現在に至るまで、和太鼓奏者として全国各地から依頼をもらいながら、福祉や障害の講演を行っている。
大学時代の友人たちはとてもオープンで、大学生らしく、飲みに行ったりカラオケに行ったりとよく遊んで楽しい時間を過ごした。障害があることで気を使ってもらうこともあったかもしれないが、そんなことは気にならないくらい、フラットな仲間だった。大学時代の友人とは、今もいいつながりがある。
現在は、育った地元で妻と飼い犬と暮らしており、ホルン奏者である妻とは一緒に演奏活動もしている。
大学を決めるにあたっては、社会福祉を学べるところで、高校時代にお世話になった先生から亮太さんの雰囲気に合うと言われた首都圏の大学に進学し、入学と同時に一人暮らしを始めた。入学後は大学から、何か要望などがあればすぐに言ってほしいと言われ、快適な大学生活だった。授業では、事前にプリントをメールで送ってもらったり、試験の内容や形式を調整してもらうなどのサポートを受けていた。社会福祉士の実習に関しては、亮太さんが1年生の頃から大学で検討されていたが、実際受け入れ先を探すことは難航した。だが亮太さんは、精一杯やる気を見せて、実習先の信頼を勝ち取ろうと努力をして、多くの方のサポートもあって、結果的には非常に充実した実習時間を過ごすことができた。
亮太さんは小6の時に盲学校で和太鼓と出会った。失明したことの一番の辛さは、見えないことで自分の存在に確証を持てずにいたことだったが、和太鼓は大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響くという手ごたえがあり、音楽の授業で和太鼓をした時に「これだ」と特別な感覚を持ったのを記憶している。高校時代には、地元での活動や学校での部活、学校を通じて会った方からの個人指導で太鼓を続けた。大学2年生でプロの演奏を見た時に突然、「同じフィールドで戦ってみたい」と思った。当時は、福祉領域の授業で障害当事者の話を聞き感銘を受け、自分自身も失明をした時の体験を当事者として話していたこともあって、今後も自分の体験を話していきたいと思っていた時期だった。だが真面目にその話だけをするのではなく、和太鼓があれば、音楽のフィールドにいる人たちに対して「広く柔らかく」当事者体験や福祉の話を伝えられるのではないかと感じ、自分の中ですべてがつながって、和太鼓奏者になることを決めた。
大学卒業後すぐから、比較的順調に和太鼓の演奏で収入を得られるようになった。だが3年ほどして自分の仕事の仕方に漠然と疑問を持っていた頃、たまたま知り合いの縁でアメリカに演奏旅行に行き、それがきっかけで広い視野を持ちたいと思って、2011年に奨学金を得て障害学を学ぶために渡米した。当初は音楽活動と研究活動を両立したいという思いもあったが、実際には英語での授業やディスカッションが非常に難しいまま期限の1年が経ってしまい、自分にとっては初めてというほどの大きな挫折だった。だがアメリカの地で暮らしたことは、かけがえのない豊かな経験を積めたと思っている。帰国後はまた演奏や講演活動を継続し、現在に至るまで、和太鼓奏者として全国各地から依頼をもらいながら、福祉や障害の講演を行っている。
大学時代の友人たちはとてもオープンで、大学生らしく、飲みに行ったりカラオケに行ったりとよく遊んで楽しい時間を過ごした。障害があることで気を使ってもらうこともあったかもしれないが、そんなことは気にならないくらい、フラットな仲間だった。大学時代の友人とは、今もいいつながりがある。
現在は、育った地元で妻と飼い犬と暮らしており、ホルン奏者である妻とは一緒に演奏活動もしている。
インタビュー24
- 小5で転校した盲学校で知的障害の友人ができたが、彼らに向けられる社会の目を感じ、そういう社会を知りたいと思って社会福祉を選んだ
- 大学の説明会で、紙のパンフレットが読めないと伝えた時の対応が非常に素早かった。キリスト教のヒューマニズムが事務の方にも息づいているのを感じた
- 点訳の手配を自分でやるのが大変で、学科の教授に相談したら「それはそうだ」と言ってくれて、事務方が点字図書館と連携して教科書や資料を点訳してくれるようになった
- 大学に点訳を求める際、理論武装をしてから伝えようと思い、学生は「学ぶこと」を努力する存在だが「学ぶために」努力をしているのは違うのじゃないかと大学に伝えた
- 資料の点訳やデータ化は、時間がないときは自分でボランティアに頼んだが、それ以外は卒論執筆のための文献のテキストデータ化も含め、すべて大学が手配してくれた
- ジェンダー論についての講義で、CMを観てジェンダー論的な視点で論じよという課題が出たが、CMは視覚情報なので、自分はそれを音楽に替えてもらった
- 知的障害関係の施設で実習を希望したが、どのように実習ができるかを施設の職員に見せるため、プレ実習ということで1年前から施設に通った
- 知的障害のある方の施設では、白杖で利用者さんを転ばすのではないかなど不安があったが、施設内の移動では利用者さんに誘導をしてもらって実習を行った
- 実習は常に不安で、何かよくないことをしてしまった場合、せっかく動いてくれた教授たちの努力も無に帰してしまうというプレッシャーがあった
- 大学卒業後の演奏や講演活動は順調だったが、10歳で失明した自分が太鼓と出会ったというステレオタイプな話をしていることに疑問をもっていた時、留学の機会を得た
- アメリカではごく当たり前に誘導やちょっとしたサポートを申し出てくれる人がたくさんいて、一度カウントしたら15分間に6人の人が声をかけてくれたことがあった
- 日本の感覚だと、障害に関する授業では自分に質問されるので待ち構えていたが、アメリカではそれはなかった。でも障害者に関してアメリカで話題になっていることを学べた
- アメリカで“一般学生が行っていることで、障害を理由に行えないことはない“と言われた。障害で不利益を被るのは仕方ないという意識がおかしいと、日本は自覚してほしい
- 洋服を買いに行くのに周りの友達に頼んでも良かったはずだが、当時は、おしゃれでありたいけれどそれを独力でできない自分を知られたくなかったのか、抵抗や遠慮があった
- 会った当時、友人らは障害のある自分にどうしたらいいのかと話し合っていたらしいが、そのうち、どうでもよくなるような感覚で、非常にオープンにかかわってくれた