インタビュー時年齢:35歳(2019年8月)
障害の内容:聴覚障害(難聴)
学校と専攻:大学・障害児教育(2002年度入学)
東北地方出身の女性。生まれつきの難聴。4世代の大家族で育ち、小中高は普通学校に通ったが、聞こえないことを誰にも言わないで過ごしていた。大学進学を機に実家を離れて、初めて聞こえない人と交流を持ち、授業にはノートテイクをつけ、手話も学んだ。大学時代は自分の聞こえ方と向き合う機会が多くあった。現在は、夫と義両親と四人暮らしで、小学校の教員として働いている。
プロフィール詳細
直美(なおみ・仮名)さんは、東北地方出身。曽祖父、祖父母、両親、兄姉がいる大きな家族で育った。家族の中で聴こえないのは自分だけで、田舎だったので障害には触れてはいけないような雰囲気を感じていた。父親がアルコール依存症で母親に対する暴力があり、出来が良かった兄姉に比べて直美さんは難聴のせいでできないことがあると、怒られることも多かった。聴力についてはずっと「普通の子と同じ」だと言われて育ったため、周囲には言えず、補聴器も髪の毛をおろして隠していた。幼少期は、家庭にも学校にも居場所がないように感じており、相談相手もいなかったので、自然と感情を出さない子になっていた。直美さんは、静かな部屋で、一対一で会話することはできるが、大勢の中や、左右の中でも聴力が低い右側から話しかけられると、相手の言うことが聞こえずに無視してしまうようなことがよくあった。普段は、わずかに聴力がある左だけに補聴器をつけている。
大学進学の時はとにかく実家から出ることが目標で、教育系なら様々な専門の先生がいると高校の担任に言われ、推薦入試で教育系の大学を受けて合格し、実家から離れて通学し始めた。最初のオリエンテーションの自己紹介の時に「チャンスだ」と思って、自分が聞こえないことを周囲に伝えた。その後、聞こえない先輩から、ノートテイクや情報保障という考え方を教えてもらい、徐々にノートテイクをつけて授業を受けるようになった。大学での専攻は障害児教育。先生になりたいという強い思いがあったわけではないが、自分は幼少期に感情が出せなかったため、同じような子がいたら、学校が居場所になればと思って、小学校の教員免許を取得した。
直美さんは大学入学当初から早く「『聞こえない人』になりたい」と思っていた。大学1年の時には、やっと自分が聞こえないということを証明してくれるものが持てると「わくわくしながら」障害者手帳を取得した。県内の聞こえない学生の集まりで会った人たちと交流して、手話も覚えた。だが一方で、発語が滑らかであることもあり、聞こえない先輩に「そんなに聞こえているのに、ノートテイクは必要なの?」と言われるなど、自分は聞こえる人なのか聞こえない人なのか分からなくなってしまうこともあった。
直美さんは、大学生活を通じて自分の聞こえ方と向き合う様々な出来事や出会いがあって、次第に自分の感情を出せるようになっていった。自分のことを深く理解してくれる親友や周囲からも、「よく笑うようになった」と言われるようになった。自分でもその変化は自覚しており、大学を経て楽になったと思う。卒業して社会に出た頃には、自分は聴こえないことについて「ずっと悩んでいくもの」と思えるようになり、自分のアイデンティティに関して腑に落ちた思いがした。
卒後は奨学金の返済もあり、仕事を得るために小学校の採用試験を受けたが2年連続不採用で、卒後3年目に教員の障害者枠ができた時、「チャンスだ」と感じた。当時は講師の仕事をしていたが、付き合っていた男性(現在の夫)の実家に入り浸り、男性のお母さんにご飯を作ってもらいながら勉強をするという生活を経て、試験に合格して教員として採用された。教員になって3年目に結婚をした。
5年前に難病である強皮症(膠原病)と診断され、今は活動量を調整しながら生活している。聞こえ方に関してアイデンティティを探したという経験から、病気に関してもアイデンティティを探そうと思ったが、結局子どもとかかわるときに、「難聴だから」「病気だから」といって何かが変わるわけでもなく、自分はありのままでいいと思えている。小学校教員として子どもとかかわる仕事は、子どもが今までできなかったことができるようになって笑顔になることに、やりがいを感じる。障害を持ってこれから進学する人には、「障害があってもできること」ではなく、まず自分自身が「やりたいこと」をやってほしいと思う。
大学進学の時はとにかく実家から出ることが目標で、教育系なら様々な専門の先生がいると高校の担任に言われ、推薦入試で教育系の大学を受けて合格し、実家から離れて通学し始めた。最初のオリエンテーションの自己紹介の時に「チャンスだ」と思って、自分が聞こえないことを周囲に伝えた。その後、聞こえない先輩から、ノートテイクや情報保障という考え方を教えてもらい、徐々にノートテイクをつけて授業を受けるようになった。大学での専攻は障害児教育。先生になりたいという強い思いがあったわけではないが、自分は幼少期に感情が出せなかったため、同じような子がいたら、学校が居場所になればと思って、小学校の教員免許を取得した。
直美さんは大学入学当初から早く「『聞こえない人』になりたい」と思っていた。大学1年の時には、やっと自分が聞こえないということを証明してくれるものが持てると「わくわくしながら」障害者手帳を取得した。県内の聞こえない学生の集まりで会った人たちと交流して、手話も覚えた。だが一方で、発語が滑らかであることもあり、聞こえない先輩に「そんなに聞こえているのに、ノートテイクは必要なの?」と言われるなど、自分は聞こえる人なのか聞こえない人なのか分からなくなってしまうこともあった。
直美さんは、大学生活を通じて自分の聞こえ方と向き合う様々な出来事や出会いがあって、次第に自分の感情を出せるようになっていった。自分のことを深く理解してくれる親友や周囲からも、「よく笑うようになった」と言われるようになった。自分でもその変化は自覚しており、大学を経て楽になったと思う。卒業して社会に出た頃には、自分は聴こえないことについて「ずっと悩んでいくもの」と思えるようになり、自分のアイデンティティに関して腑に落ちた思いがした。
卒後は奨学金の返済もあり、仕事を得るために小学校の採用試験を受けたが2年連続不採用で、卒後3年目に教員の障害者枠ができた時、「チャンスだ」と感じた。当時は講師の仕事をしていたが、付き合っていた男性(現在の夫)の実家に入り浸り、男性のお母さんにご飯を作ってもらいながら勉強をするという生活を経て、試験に合格して教員として採用された。教員になって3年目に結婚をした。
5年前に難病である強皮症(膠原病)と診断され、今は活動量を調整しながら生活している。聞こえ方に関してアイデンティティを探したという経験から、病気に関してもアイデンティティを探そうと思ったが、結局子どもとかかわるときに、「難聴だから」「病気だから」といって何かが変わるわけでもなく、自分はありのままでいいと思えている。小学校教員として子どもとかかわる仕事は、子どもが今までできなかったことができるようになって笑顔になることに、やりがいを感じる。障害を持ってこれから進学する人には、「障害があってもできること」ではなく、まず自分自身が「やりたいこと」をやってほしいと思う。
インタビュー26
- 高校を卒業するとき、一番にまず実家を出て親元を離れることを考えて大学を選び、支援の受けやすさのイメージで学部を選んだ
- 自分より聞こえない先輩にはノートテイクがつくが、自分の場合は、聞こえるでしょ?と言われた。その先輩は、情報保障の必要性をうまく説明できていたのだと思う
- 実習では、理解が得られず大変だった。悪い癖が抜けず、初対面の人に配慮を求めていいかどうかすぐに判断してしまい、実習先では対話のための努力もしなかったように思う
- 最初のオリエンテーションで、今がチャンスと思って難聴だと周囲に伝え、ノートテイクや情報保障のことを聞こえない先輩に教えてもらって、徐々に使うようになった
- アルバイトは、小学校のプールの監視員やテストの採点、模試の丸つけなど、色々やった。居酒屋の皿洗いのアルバイトでは、聞こえないことで嫌な思いをして辞めた
- 自分でノートテイクを利用しながら、大学のノートテイク活動の運営にも関わったことで、情報保障のノウハウなどを学び、職場に出てから必要なことなども持って卒業できた
- 聴覚障害に関する日本の基準は、世界とはかけ離れており、他の国だと自分より軽度でも支援がある。日本は検査も音が聞き取れるかだけで、言葉の聞き取りの判断がない
- 大学で聞こえない人に会い、早く聞こえない人の仲間になりたいと思った。だが次第に聞こえない人との違いを知って、自分は聞こえない側にはいけないとも感じるようになった
- 友達は、自分が聞こえていないことを分かっているような時も、教えてと言わないと教えてくれなかった。友達と言えども、教えてと言わないといけないんだなと思うようになった
- 大学の一時期、人と距離を置きたかった時期があった。親友はそれに気づいて、詮索することなく受け入れてくれた。自分の聞こえについては、ずいぶん彼女に整理してもらった