インタビュー時年齢:36歳(2019年8月)
障害の内容:内部障害(下垂体機能低下症、特発性過眠症)
学校と専攻:大学・心身障害学(2001年度入学)、大学院修士・障害児教育(2005年度入学)、大学院博士・障害科学(2008年度入学)
関東地方在住の女性。おそらく生まれた時から病気はあったが、「体が弱い」というだけで明確な診断なく育った。自分を理解したいという思いから、大学は障害を持つ人の心理や教育を中心に学び、もう少し知りたくて、その後大学院に進学した。大学院博士課程在学中の25歳の時に「下垂体機能低下症」、32歳の時に「特発性過眠症」と診断された。現在は、大学で教員をしている。
プロフィール詳細
里子(さとこ・仮名)さんは、関東地方在住。両親と弟の4人家族で育った。おそらく生まれた時から「下垂体機能低下症」という病気で、副腎皮質刺激ホルモンが足りないために、症状としてはひどく疲れやすく、風邪などが重症化しやすかった。また「特発性過眠症」という病気もあり、高校1年生頃から、急に抗えない眠気である「睡眠発作」が日に何度も起きるという症状があった。しかしどちらも診断がついたのは成人してからで、幼い頃はとにかく疲れやすく「体の弱い子」だったが、両親も自分もそれが特定の病気だとは思わず、「体に気を付けようね」と言って過ごしていた。
大学進学にあたっては、体調のことや、それゆえに人間関係がうまくいかなかったこともあって、医学か心理学を学びたいと思っていた。母親は里子さんの体調を心配して、できれば自宅近くの大学への進学を希望しており、最終的には自宅から通える大学で、心理学が学べるところに自己推薦で入学した。
里子さんの大学は自宅から近い所だったが、一人暮らしを経験してみたくて入学後は寮に入った。入学当初は「学びたい」という思いから多くの科目を履修して、今思えば目いっぱいの生活をしており、あっという間に4キロ痩せてしまうこともあって、そこからは自炊を始めるなど自己管理を意識した。
それまで障害を持つ人との交流が全くなかったが、大学には障害を持つ学生が多く、視覚障害の学生が白杖を使ってキャンパス内を歩いていたり、里子さん自身も全盲の大学院生の方へのインタビューをさせてもらった経験から、次第に障害を持つ人に関心を持つようになった。また障害のことを学べば、何かよくわからない自分について考える材料が見つかるかもしれないという期待もあって、2年次のコース選択の際に、学科のなかでも障害を持つ人の教育や心理について学ぶ心身障害学のコースを専攻した。
入学当初から、教員免許を取ろうと思って科目を履修していたが、特別支援学校での実習は体力的に非常に厳しかった。また、ある学校見学の際、先生の話の最中に眠気で意識を保っていられなくなってふらついてしまい、その場で立たされてしまった。今思えばこれは睡眠発作だったが、当時は診断もついておらず説明のしようもなくて、結局この出来事がきっかけで教員免許を取ることは諦めざるを得なかった。教員免許は希望すればほとんどの人が取れるものだったので、どうして自分は諦めなくてはいけないのかと、当時は非常に悩んだのを覚えている。
大学時代は同級生との交流や、神社での巫女さんバイト、囲碁の部活など広く人とかかわる経験を通じて、多様な考えや価値観に触れた。多様な人とかかわり多様な価値観に触れることは、自分自身が理解されない場もあることを学ぶことにもなり、学生時代にそれを学べたことは良かったと思う。
卒業後の進路については、体力的に一般企業への就職は難しいと思い、またもう少し勉強したいと思ってストレートで大学院の修士課程へ進学しインドネシアの障害児教育の研究を始めた。だが実際にインドネシアへ渡航した際にアメーバ赤痢にかかり重症化してしまい、現地の気候のなかで体調を回復させるのがとても大変だった。
その後、里子さんは、博士課程に進学した25歳の春にイベントで訪れていた公民館のトイレで倒れてしまった。救急車で運ばれた先の病院で「下垂体機能低下症」で副腎皮質ホルモンが不足していると初めて診断され、内服治療が始まった。診断された時はショックというよりも、自分について、分からないことが一つ分かったという「爽快感」を得た思いだった。
博士課程在学中にまた突然の睡魔が起こった際、電車のホームから落ちそうになってしまった。さすがに危険を感じ、自分で色々調べて医療機関にかかって、32歳の時に「特発性過眠症」と診断された。この病気も内服を続けることで、睡眠発作を抑えられるようになった。
里子さんは現在、関東地方で一人暮らしをしながら大学の教員をしている。社会には本当に多様な考えや価値観の人がいることを知ってほしいと思って、日々学生と関わっている。
大学進学にあたっては、体調のことや、それゆえに人間関係がうまくいかなかったこともあって、医学か心理学を学びたいと思っていた。母親は里子さんの体調を心配して、できれば自宅近くの大学への進学を希望しており、最終的には自宅から通える大学で、心理学が学べるところに自己推薦で入学した。
里子さんの大学は自宅から近い所だったが、一人暮らしを経験してみたくて入学後は寮に入った。入学当初は「学びたい」という思いから多くの科目を履修して、今思えば目いっぱいの生活をしており、あっという間に4キロ痩せてしまうこともあって、そこからは自炊を始めるなど自己管理を意識した。
それまで障害を持つ人との交流が全くなかったが、大学には障害を持つ学生が多く、視覚障害の学生が白杖を使ってキャンパス内を歩いていたり、里子さん自身も全盲の大学院生の方へのインタビューをさせてもらった経験から、次第に障害を持つ人に関心を持つようになった。また障害のことを学べば、何かよくわからない自分について考える材料が見つかるかもしれないという期待もあって、2年次のコース選択の際に、学科のなかでも障害を持つ人の教育や心理について学ぶ心身障害学のコースを専攻した。
入学当初から、教員免許を取ろうと思って科目を履修していたが、特別支援学校での実習は体力的に非常に厳しかった。また、ある学校見学の際、先生の話の最中に眠気で意識を保っていられなくなってふらついてしまい、その場で立たされてしまった。今思えばこれは睡眠発作だったが、当時は診断もついておらず説明のしようもなくて、結局この出来事がきっかけで教員免許を取ることは諦めざるを得なかった。教員免許は希望すればほとんどの人が取れるものだったので、どうして自分は諦めなくてはいけないのかと、当時は非常に悩んだのを覚えている。
大学時代は同級生との交流や、神社での巫女さんバイト、囲碁の部活など広く人とかかわる経験を通じて、多様な考えや価値観に触れた。多様な人とかかわり多様な価値観に触れることは、自分自身が理解されない場もあることを学ぶことにもなり、学生時代にそれを学べたことは良かったと思う。
卒業後の進路については、体力的に一般企業への就職は難しいと思い、またもう少し勉強したいと思ってストレートで大学院の修士課程へ進学しインドネシアの障害児教育の研究を始めた。だが実際にインドネシアへ渡航した際にアメーバ赤痢にかかり重症化してしまい、現地の気候のなかで体調を回復させるのがとても大変だった。
その後、里子さんは、博士課程に進学した25歳の春にイベントで訪れていた公民館のトイレで倒れてしまった。救急車で運ばれた先の病院で「下垂体機能低下症」で副腎皮質ホルモンが不足していると初めて診断され、内服治療が始まった。診断された時はショックというよりも、自分について、分からないことが一つ分かったという「爽快感」を得た思いだった。
博士課程在学中にまた突然の睡魔が起こった際、電車のホームから落ちそうになってしまった。さすがに危険を感じ、自分で色々調べて医療機関にかかって、32歳の時に「特発性過眠症」と診断された。この病気も内服を続けることで、睡眠発作を抑えられるようになった。
里子さんは現在、関東地方で一人暮らしをしながら大学の教員をしている。社会には本当に多様な考えや価値観の人がいることを知ってほしいと思って、日々学生と関わっている。
インタビュー28
- 人間関係がうまくいかない経験から心理学を学ぶつもりだったが、さらに自分を考える材料をくれるかもしれないと思って、障害のある人の心理や教育を学ぶことに決めた
- 教職課程には教育実習だけでなく介護体験なども必要で、体力的にしんどかった。特別支援学校での実習には行ったが、それがかなりしんどく、その後教職をあきらめた
- 高校時代から引き続き、大学でも囲碁部に入っていた。他大学との対局や町中の碁会所、一般の大会での出会いを通じて、同じ学生でも雰囲気の違う人たちや全く世代の違う人たちと関わることができた
- 一番長く続けたのは神社の巫女(みこ)さんバイトで、体調面でコンビニよりも安心してできるんじゃないかと、親に神社に連れていかれて始めたのがきっかけだった
- 飲食店のバイトは体力勝負なところもあって自分には難しいと思った。だが、色々なバイトを経験することで、自分が生きていく場所を探せると思えるような感覚があった
- ある大学に応募した際、履歴書に病気のことを書いたら、指導教員に「難病患者に助教が務まるのか」と問い合わせが来た。それ以降、病気のことを書くのをやめた
- 授業を通じて、自分は人と違う考え方をするのかなと気づかされた。また自分自身のことは簡単には分からないということが分かったというのも、4年間の大きな気づきだった
- 母親からは、大学を選ぶ時も、一人暮らしを始めた時も心配された。だが徐々になんとかやれている様子を見て、自分が決めたことをやればいいという接し方になっていった
- 大学で障害を持っている人たちを目にしたり話を聞いたりしていなければ、医務室に時々お世話になるなど、自分が他人と違うということを受け入れていなかったかもしれない
- 直接病気や履修の相談をしたことはないが、大学にはいろんな先生がいたので、研究室を訪ねて自分が話しやすい人ってどんな人だろうと探っていたようなところはあった