インタビュー時年齢:43歳(2020年8月)
障害の内容:視覚障害(弱視)
学校と専攻:大学・理学部(1996年度入学)、大学院・生命科学(1999年度入学)
中国地方在住の男性。大学院で生命科学の研究をしていた22歳の時に網膜色素変性症の診断を受けた。顕微鏡を使う研究だったが、当時は視野がある程度残っていたので、そのまま研究を続け博士号を取得。アメリカの大学で6年間の研究生活を経て帰国。民間企業の障害者枠で就職を目指すも自分に合った仕事が見つからず、工業高等専門学校の人員募集に一般枠で応募して教職についた。現在は学生の目を借りながら顕微鏡を使った研究を続けている。
プロフィール詳細
勝弥(かつや・本名)さんは、高校時代から目に違和感を抱いていたものの、病気だとは思っていなかった。しかし、大学院で生命科学の研究をしていた22歳の時に、たまたま読んでいた本に網膜色素変性症のことが書かれており、その症状が自分にぴったり当てはまることに気づき、受診して診断を受けた。すでに視野はだいぶ欠けていたが、当時は自転車での通学もでき、人の手を借りずに顕微鏡を使った実験もできていたので、研究室の教授以外には誰にも視覚障害があることを言わずに研究を続けた。
博士号取得後、同じ研究室で研究員として1年ほど勤めたのち、アメリカの大学に博士研究員として武者修行に出た。現地で6年間過ごす間も周囲には視覚障害を伝えていなかったが、電子顕微鏡を使った研究を続けるにはかなり厳しい状況になってきて、2011年に帰国。障害者枠での民間企業への就職をめざしたが、自分のキャリアに見合う仕事がなかなか見つからず、高等教育機関への就職に方向転換し、2012年工業高等専門学校に職を得た。
当初は周りに視覚の問題があることを伝えていたものの、特別な支援を必要とするほどではなかったが、2015年から16年にかけて症状が急激に進行し、右目が完全に見えなくなったことで、できないことがぐっと増えた。それまでずっと自分の障害と向き合うことを避けてきたが、右目の視力が「0.0」という数字を突き付けられて、相当な精神的ショックを受けた。一時は仕事も辞めなくてはいけないと思い詰めたが、視覚障害を持ちながら働き続ける人たちの当事者団体につながって、視力を失っても研究職についている人たちに出会うことができた。彼らの勧めもあって、1年間余り休職して、視覚障害者として生活するためのリハビリテーションを受けたのち、復職した。
休職前に障害の状況と必要な支援について細かく書いた情報提供書を職場に提出していたので、復職後はそれに基づき、高専側により点字ブロックや外灯、手すりの設置、補助事務員の配置といった合理的配慮が行われた。
現在の左目の視力は0.7あるが、視野は非常に狭く中心部の小さな穴から覗いているような状態。顕微鏡を使った実験を行っているが、自分で顕微鏡を覗くのではなく、代わりに学生に顕微鏡の操作を指示し、そこに見えるものを報告してもらって、研究成果を出している。高専の学生は15歳から同じクラスで5年間過ごすため、学生と教員の関係が近く、支援が必要な時には学生に気軽に頼める。学生にとっても、そうした支援を通じて、顕微鏡の原理や操作についてしっかり学ぶことができるので、良い面もあるのではないかと思う。
確実に進行していく病気ではあるが、10年、20年先の将来設計をしておこうとは思わない。なぜならICT技術がどんどん進歩して、自分の目で見なくても画像認識ができるようになり、10年後にはさらに優れた技術が生まれている可能性があるから。但し、情報収集だけは怠らず、今できることをしっかりこなしていくことが大切だと思っている。
自分のような中途障害者は障害を受け入れることが非常に難しいが、ひとたび自分にできないことは人に頼めばいいのだと思えるようになると、世の中には優しさがあふれているということを知ることができる。どう助けてほしいか、もっと当事者の側から情報発信していくことが重要だと思っている。
博士号取得後、同じ研究室で研究員として1年ほど勤めたのち、アメリカの大学に博士研究員として武者修行に出た。現地で6年間過ごす間も周囲には視覚障害を伝えていなかったが、電子顕微鏡を使った研究を続けるにはかなり厳しい状況になってきて、2011年に帰国。障害者枠での民間企業への就職をめざしたが、自分のキャリアに見合う仕事がなかなか見つからず、高等教育機関への就職に方向転換し、2012年工業高等専門学校に職を得た。
当初は周りに視覚の問題があることを伝えていたものの、特別な支援を必要とするほどではなかったが、2015年から16年にかけて症状が急激に進行し、右目が完全に見えなくなったことで、できないことがぐっと増えた。それまでずっと自分の障害と向き合うことを避けてきたが、右目の視力が「0.0」という数字を突き付けられて、相当な精神的ショックを受けた。一時は仕事も辞めなくてはいけないと思い詰めたが、視覚障害を持ちながら働き続ける人たちの当事者団体につながって、視力を失っても研究職についている人たちに出会うことができた。彼らの勧めもあって、1年間余り休職して、視覚障害者として生活するためのリハビリテーションを受けたのち、復職した。
休職前に障害の状況と必要な支援について細かく書いた情報提供書を職場に提出していたので、復職後はそれに基づき、高専側により点字ブロックや外灯、手すりの設置、補助事務員の配置といった合理的配慮が行われた。
現在の左目の視力は0.7あるが、視野は非常に狭く中心部の小さな穴から覗いているような状態。顕微鏡を使った実験を行っているが、自分で顕微鏡を覗くのではなく、代わりに学生に顕微鏡の操作を指示し、そこに見えるものを報告してもらって、研究成果を出している。高専の学生は15歳から同じクラスで5年間過ごすため、学生と教員の関係が近く、支援が必要な時には学生に気軽に頼める。学生にとっても、そうした支援を通じて、顕微鏡の原理や操作についてしっかり学ぶことができるので、良い面もあるのではないかと思う。
確実に進行していく病気ではあるが、10年、20年先の将来設計をしておこうとは思わない。なぜならICT技術がどんどん進歩して、自分の目で見なくても画像認識ができるようになり、10年後にはさらに優れた技術が生まれている可能性があるから。但し、情報収集だけは怠らず、今できることをしっかりこなしていくことが大切だと思っている。
自分のような中途障害者は障害を受け入れることが非常に難しいが、ひとたび自分にできないことは人に頼めばいいのだと思えるようになると、世の中には優しさがあふれているということを知ることができる。どう助けてほしいか、もっと当事者の側から情報発信していくことが重要だと思っている。
理工系インタビュー03
- 顕微鏡を主に使う研究をしているが、視野が狭いため自分の目を徹底的に疑っている。学生に代わりに見てもらって、見えている画像の概要を説明してもらって実験を続けている
- 視力が落ちて顕微鏡で試料を見るのが難しくなった頃にデジタルカメラが登場して首の皮一枚でつながって研究は乗り切れた。技術は日々進歩しているので情報収集は怠らない
- 右目の視力を失ったときはショックが大きくて、リハビリにも打ち込めなかったが、白杖を突きながら復職すると周囲の教職員の対応が変わり、ずっと働きやすくなった
- 帰国後民間で就職しようと思って仕事を探したが、博士号を持ち英語が堪能でも全く決まらず、高等教育機関のほうが自分を評価してくれるのはないかと考えて高専に応募した
- 学生たちは研究室に入ってくる時点で、自分の目のこともわかっている。顕微鏡を使う時にはその原理が理解できるよう説明しているので、学生からの評判は悪くない