インタビュー時年齢:47歳(2020年12月)
障害の内容:多発性硬化症による肢体不自由(上下肢障害)・電動車椅子使用
学校と専攻:大学・理学部(1992年度入学)、大学院・化学専攻(1997年度入学)

関東地方在住の男性。大学院博士課程に進学して間もなく、右手がしびれて字が書けなくなり、脳神経外科を受診して多発性硬化症の診断を受けた。やがて歩くのにも支障が出てきて、苦労の末2004年に博士号を取得したが、車椅子に乗ってまで研究活動を続けることは思いもよらず、在宅でも仕事ができるようIT技術者の養成講座を受講して、国立大学の経済学部で研究補佐の仕事を得た。

プロフィール詳細

正芳(まさよし・仮名)さんは、幼いころから科学が好きで、大学では有機合成化学という分野を専攻した。研究が面白くて大学院に進み、さらに博士課程に進学した25歳の時、体調の異変を感じた。右手がしびれて字を書いたり箸を持ったりすることができなくなり、そのうちに歩いていてもたびたびつまずくようになり、神経の症状ではないかと考えて、脳神経外科を受診した。脳のMRIを撮って詳しく検査した結果、多発性硬化症と診断された。
 進行性の難病ではあるが、なかなか診断がつかない人も多い中、3カ月ほどで診断がついたので、自分で治療薬を作ろうという目標を持って、とりあえず研究を続けることにした。主任教授は病名を聞いて「お前すぐ死ぬのか?」と聞いたが、「先生より先に死ぬことはないと思います」と返事をしたら、研究を続けることに対しては何も言われなかった。当時の研究室には「病気があろうがなかろうか、結果を出さないとしょうがない」という雰囲気があり、合理的配慮というものも一切なかった時代なので、自分から何か配慮を申し出ることも考えつかなかった。ただ実験は主に座ってやるもので、狭い研究室の中は伝い歩きができたので、薬品やガラス器具などの危険なものを扱うときには注意が必要だったが、何とか続けられた。結果的に5年かかったが、博士号を取得することができた。
 一方、病状は博士課程4年目くらいからさらに進行して、歩くのも大変になってきた。杖を突きながら横断歩道を渡るのに、信号が赤に変わる前に渡り切れないという状況になり、主治医から障害認定を受けることを勧められた。実際に車椅子生活になったのは大学院を出てからだったが、歩けなくなるということはかなりのショックだった。将来は化学会社か製薬会社で研究をしたいと考えていたが、「もう研究なんかしてる場合じゃない」と思うようになった。当時、キャンパスを車椅子で移動している人を見かけることはなかったので、車椅子に乗ってまで研究活動をしようという考えは全く起きなかった。博士課程修了時点で、就職活動はしていたが全く決まらなかった。職種を限らずに障害者向けの就職セミナーに行ったりもしたが、面接まで進むこともなく、数年が過ぎたところで、在宅で受けられるIT技術者養成講座を2年間受講して、現在の職場を紹介された。
 職場は国立大学の経済学部の研究室で、研究と事務の補佐的な仕事を任されている。今も最初に出た右手のしびれが残っているため、キーボードを打つのもマウスを使うのも左手のみである。基本は在宅のデスクワークで、月に1度大学へ行って打ち合わせをするが、今は新型コロナウイルス感染症のためそれもオンラインで行われている。大学に行くときは車椅子で、構内にはスロープが設置されたり、車椅子用のトイレが増設されたりしているが、それは自分に対する個別の合理的配慮として行われたものではない。
 個別的な配慮としては、週3回昼休みを延長してリハビリテーションを受けられるよう、勤務時間帯をずらしてもらっている。おかげで仕事を始めてから体調が悪くて休んだことはほとんどない。年に1度、様々な障害を持つ職員が集まって、バリアフリー化に関する意見交換をする場が設けられており、そこでの出会いが今回のインタビューにもつながっている。今は障害があっても、まずは自分にできることは何かを考え、環境を変えることでやりやすくなるようなことがあるのなら、自分から訴えかけて変えていくべきだと思っている。

私は: です。

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