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インタビュー時年齢:40代(2019年8月現在)
障害の内容:聴覚障害(ろう)
学校と専攻:大学・心身障害学(1991年度入学)
関西地方在住の女性。両親と妹、弟の5人家族。5歳の時の高熱のあと聞こえなくなった。小中高は普通校に通い、とにかくしっかり勉強をしようと努力していた。大学は、心身障害学を学べるところを選んだ。大学に入ってろう者の先輩に会い、手話を覚えて世界が大きく広がり、その後大学院に進学し、アメリカへの留学も経験した。現在は研究者で、障害学生支援の仕事をしている。
語りの内容
そうですね…。まず、私が大学にいた頃というのは手話自体への評価、専門家の人たちの手話の評価というのが言語としてはまだ認められていない状況でした。
ろう教育の中では、手話というのはコミュニケーション手段としてはいい、ろうにとっては楽でスムーズでいいけれども、言語習得の手段ではない。言語習得のためには、日本語を「聴覚口話法」で教育をして習得させなければならないという考え方が主流だったので、大学に入ったときにも、手話通訳で大学の授業を受けるんだ、へえ・・みたいなのはありました。手話で通訳なんて本当にできるのかというような疑問視する先生方もいたと思います。
また、私は学部の4年生から学会に参加をするようになったんですけれども、学会に参加すると、「手話通訳を利用するろう者が学会の場にいるんだ」というように、周りは肯定的ではなかったんですね。学会のような場に来られるろう者というのは、聴覚口話で聴者並みに自分の声で話して議論ができるろうだけ、というイメージがあったのかなあと思います。手話通訳?と厳しい目で見るような雰囲気はありました。
ただ、ろう教育の専門の先生方からはそういうふうにみられていましたが、私としては大学の授業は手話通訳ではっきりとわかる、きちんと理解ができている。それはまぎれもない事実だから、その考えはおかしい、学部生なりにろう教育の専門家たちの言っていることはおかしい、間違っているのではないかと疑問に思って、それなら自分で研究しようと思いました。まあ、そこから、大学院についても考えるようになったと思います。
インタビュー27
- 将来は耳を使わない仕事がいいと思っていた。医学部にも興味があったが当時は欠格条項があり、それを改正してまで医者になろうとは思わなかった(手話)
- アメリカでは自分で電話を使うことができ、テレビにも全て字幕がついていて、これはすごいことだと思った。情報保障の重要性を実感した(手話)
- 当時日本には手話に関する学術的な研究は少なかったが、留学中に手話言語学の勉強をしたりするなかで研究のヒントを得て、それを博士論文につなげた(手話)
- 当時は手話自体への評価がまだ認められていなかったが、学部生なりにろう教育の専門家が間違っているのではないかと考え研究をして、それが大学院進学につながった(手話)
- 何がどこまでできるのかという限界を作るのは自分自身で、自分が限界を作らなければ先に進むことができると思う。チャレンジ精神を大事にしてほしい(手話)
- 障害学生支援体制は整いつつあるが、行った支援がこれで良いか、大学は支援内容をきちんとモニタリングする必要がある。自分も今後はそういう点を大事にしていきたい(手話)
- 大学で手話に出会い、聞こえないことを隠さず生きることを両親に伝えた。両親は最初心配していたが、後に自分の体験を書いた本を見せたとき、理解してくれた(手話)
- 入学後にろうの先輩に会い、大学の学生支援の仕組みを教えてもらった。また、手話サークルで手話を覚えたことで、社会で必要なコミュニケーションを学ぶことができた(手話)