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インタビュー時年齢:41歳(2018年12月)
障害の内容:全身性の肢体不自由(脳性麻痺)
学校と専攻:大学・医学(1995年度入学)・大学院・医学系研究科生体物理学(2006年度入学)
中国地方出身の男性。電動車椅子を使用している。高校までは普通学校に通い、周囲に勧められて進学を決め、首都圏の大学へ進学した。同時に一人暮らしを始めて、「お互いさま」で友人の助けを借りながら生活を続けた。もともとは数学が好きだったが、人への関心が高まり、専攻は医学を選んだ。実習や研修では教科書通りにいかない身体である難しさを感じたが、そのつど周囲とのつながり方を考え、工夫と調整を重ねた。現在は大学の研究者。
語りの内容
バリアフリー支援室っていうのは、まさにそういう現状ではまだまだ一部の専門性に偏っているというか、本当なら知識ソムリエではないですけれど、他の場所ではできない障害学生支援を大学の中で展開してほしいですし、そのためには支援室が全ての学問に開かれていて、で、目の前の障害学生が抱えている傷や困難をインテーク、しっかりインテークして、もしかしたらそれは文学のほうかもしれないとか、法律かもしれないというふうにこうつなげていくような支援が、もし大学の中で実現できたら、私は当事者研究という言葉にそういうものを期待しているんですけどね、自分の傷や困難と学問をつなげるというふうな、その橋渡しのキーワードだと思ってるんですが、そういうものを展開したときに、おそらくどこにもない障害学生支援、障害者の支援が大学の中で展開できると思うんですよね。
それが、そういうものが実現できた暁には、多分大学の資源としてオープンに地域にそれを開いていけると思うんですよね。私個人の、にとっては大学の4年間というのはやっぱり知に触れた、生き延びるための知に触れた。あと言葉ですね。やっぱり何もそれに何か悔しい出来事とか、傷ついた出来事に対して言葉が見つけられないっていうことに対して、言葉をくれたのが4年間でしたので。いや、私はやっぱり障害を持っている方こそ大学は、ぜひ来てほしい…。
極端な言い方をすると、それは、あの地域に、それをオープンにすることで大学の資源にもなると思うんですね。今、財源に余裕がないというのは事実なんですけれど、それは一つには、その何ていうんでしょうね、まさに障害が有ろうが無かろうが皆当事者で、当事者の困難と専門知というものが乖離(かいり)していては、まあ、売れるものがないというか、大学が地域に対して、社会に対してどのようなものをこう…、貢献できるのか、そこに対して地域が、まあ高信頼性組織じゃないですけど大学というものを信頼してくれて、これだったらみんなで支えようっていうふうに思えるのかどうかだと思うんですよね、財源の問題というのは…。
で、今日の、そういう当事者の傷や困難と知恵をつなげるっていう話は、恐らくはそういった決して何でしょう、その…、財源を逼迫(ひっぱく)させるものではなくて、むしろ大学がこう…、貢献する、社会に貢献して、そこにこう社会が信頼をしてくれて、えー、大学を支えてくれるような方向につながり得るものじゃないかなとは思いますね…。はい。
インタビュー04
- 当初は数学を勉強したかったが、入学後の独り暮らしやサークル活動を通じて社会や人の多様性を勉強したくなり、医学を専攻することを決めた
- 親に頼っている生活に先がないと思っており、一人暮らしをすることも一つの当時の自分の目標だった
- 解剖学実習など手を動かしながら顕微鏡を覗くような授業は、できるところはやって、できないところは班の人からサポートしてもらう状況だった
- 実習では、処置について不安を感じたり、手術室で外科は難しいだろうなとも思った。一方で、内科で患者さんの鑑別診断をすることなど、自分が貢献できる場所があるとも感じた
- 制度がある程度整ってきた世代の特有のしんどさがある。障害の種別にもよるし、一生懸命やってもらっているので、それ以上文句が言えないということも多いと思う
- 障害学生の支援制度が整いつつある中、フラストレーションはあるが文句は言えないという人がいたら、支援者と自分だけにならずに、他の障害をもつ人に会うといい
- 自分にとって大学は、障害ゆえに傷ついたり困ったりしたことに、知や言葉によって対することを教えてくれた場だった。学問の中に、傷や困難に対するヒントがあると思う
- いまだに障害学生支援はしぶしぶやるような面があるが、大学は研究者が様々な知恵を持っている場なので、障害学生支援を知的好奇心の対象としてほしい(次のクリップに続く)
- バリアフリー支援室はまだ一部の専門性に偏っているが、支援室が全ての学問に開かれて障害学生が抱える傷や困難と学問をつなげられたら、地域にとって資源になる
- 最初は自分で一通りやってみて、難しい部分は同級生に手伝ってもらうこともあった。試行錯誤を重ね、親がいなくなっても最低限の暮らしは出来そうだと自信を得た
- 医学部への進学は当時学部内でも議論になり、ある教授がアパートに様子を見に来たが、前日に仲間と空けた一升瓶が転がっているのを見て、「彼なら大丈夫」と報告されたそうだ