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インタビュー時年齢:41歳(2018年12月)
障害の内容:全身性の肢体不自由(脳性麻痺)
学校と専攻:大学・医学(1995年度入学)・大学院・医学系研究科生体物理学(2006年度入学)
中国地方出身の男性。電動車椅子を使用している。高校までは普通学校に通い、周囲に勧められて進学を決め、首都圏の大学へ進学した。同時に一人暮らしを始めて、「お互いさま」で友人の助けを借りながら生活を続けた。もともとは数学が好きだったが、人への関心が高まり、専攻は医学を選んだ。実習や研修では教科書通りにいかない身体である難しさを感じたが、そのつど周囲とのつながり方を考え、工夫と調整を重ねた。現在は大学の研究者。
語りの内容
まあ、もう一つは、そういう勉強のストーリーとは別に、日常生活の全てを親に頼っている生活自体に先がないとどこかで思っていまして。
だから何というんでしょうか、一方では数学は勉強したいという文脈と、もう一方では、あの、親のほうが先に死ぬのでしょうから今のままの暮らしは持続可能ではない。なので早めに、その親元から離れて、えー、親や家族以外の人に支えてもらう暮らしを構築しておきたいというふうにも、これは、まあ中学ぐらいからずっと思ってきたことだったので、その2つの、文脈ですかね。こう数学勉強してみたいっていうのと、親に頼らない暮らしを構築したいっていうことの2つの文脈が合流して…、あの、逃げようと、逃げようと言うと語弊ありますけれど、えー、親元から900キロメートル以上離れようと。
900キロメートルというのはなぜ算出されたかというと、当時の公共交通機関で日帰りが無理な距離というおおよその距離で、で、そういうふうなことを高校3年生で思うようになりました…。
なので、えーと、まあ、一人暮らしをするっていうことも一つの当時の私の目標でしたし、えー、まあ、どちらかというとそちらが主な大きい目標ですね。
それで、親は反対しましたけれど…、あの、今ここで、じゃあ一人暮らししないと、ここでやはり自分の……、全くビジョンはないけれどもここで譲ったらいけないことだけは分かるというような感じで、えー、親の反対を押し切って選んだようなところがありますね…。
で…、当時はほんと狭い世界だったので、親を説得する材料もそれほど知恵がなくて、受験勉強で現代文の過去問を解いているときに、芥川龍之介の遺書が出題文になっていたんですけど、そこでその、そこに書かれていたのが自殺した芥川龍之介が子供に宛てた遺書で、どんなに反対、されても、お母さんからどんなに反対されても自分の道を貫きなさいと、それがやがてはお母さんの幸せになるからっていう出題文を見たときに、あ、これは使えると思いまして、夕食時にそれをそらんじたんですけれども、母親を前に、これで説得できるんじゃないかと思って。
しかし…、全く効果がなかったのをよく覚えていますけど…。なので交渉は、あの、少し必要でしたけれども…、そういう理由で大学を選びました。
インタビュー04
- 当初は数学を勉強したかったが、入学後の独り暮らしやサークル活動を通じて社会や人の多様性を勉強したくなり、医学を専攻することを決めた
- 親に頼っている生活に先がないと思っており、一人暮らしをすることも一つの当時の自分の目標だった
- 解剖学実習など手を動かしながら顕微鏡を覗くような授業は、できるところはやって、できないところは班の人からサポートしてもらう状況だった
- 実習では、処置について不安を感じたり、手術室で外科は難しいだろうなとも思った。一方で、内科で患者さんの鑑別診断をすることなど、自分が貢献できる場所があるとも感じた
- 制度がある程度整ってきた世代の特有のしんどさがある。障害の種別にもよるし、一生懸命やってもらっているので、それ以上文句が言えないということも多いと思う
- 障害学生の支援制度が整いつつある中、フラストレーションはあるが文句は言えないという人がいたら、支援者と自分だけにならずに、他の障害をもつ人に会うといい
- 自分にとって大学は、障害ゆえに傷ついたり困ったりしたことに、知や言葉によって対することを教えてくれた場だった。学問の中に、傷や困難に対するヒントがあると思う
- いまだに障害学生支援はしぶしぶやるような面があるが、大学は研究者が様々な知恵を持っている場なので、障害学生支援を知的好奇心の対象としてほしい(次のクリップに続く)
- バリアフリー支援室はまだ一部の専門性に偏っているが、支援室が全ての学問に開かれて障害学生が抱える傷や困難と学問をつなげられたら、地域にとって資源になる
- 最初は自分で一通りやってみて、難しい部分は同級生に手伝ってもらうこともあった。試行錯誤を重ね、親がいなくなっても最低限の暮らしは出来そうだと自信を得た
- 医学部への進学は当時学部内でも議論になり、ある教授がアパートに様子を見に来たが、前日に仲間と空けた一升瓶が転がっているのを見て、「彼なら大丈夫」と報告されたそうだ