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インタビュー時年齢:31歳(2019年6月)
障害の内容:肢体不自由(脳性麻痺)・言語障害
学校と専攻:教養学部(2009年度入学)
首都圏在住の男性。脳性麻痺による肢体不自由で、言語障害がある。介助用車椅子で生活している。子どもの頃は、九州地方で育った。小中は普通学校。高校が通信制で、そこで自分の時間が持てたことが新鮮だったので、大学も通信制を選び、人文学を専攻した。大学では芸術系の科目がとても面白かった。趣味の映画やライブに行くためにヘルパーを探し、そのことがきっかけで、現在は24時間のヘルパーを付けて一人暮らしをしている。
語りの内容
そうですね。こうこ、(通信制高校に通うことで)高校で、あの、できた時間って、っていうのは、あの、自分、自分なりに…、大切にしようと。
(介助者:高校でできた時間は、自分なりに大切にしようと。)
思った。
その考えで、じ、自分ができる、自分ができることって何だろうと、いろいろチャレンジして。
(介助者:自分ができることって何だろうと、自分でチャレンジして。)
その中で、ん、あ…、個人的な話になっちゃうけど。
(介助者:その中で、個人的な話になっちゃうんですけれども。)
文章を書いたり、あと、か、カメラで、映像を、いろ、いろいろと、撮ったりして。
(介助者:文章を書いたり、カメラで映像を撮ったり。)
っていうことは、あの、楽しみを見つけて、正直、高校を卒業するときは、そっちのことを、あの、もっと突き詰めてやりたいなと思っていました。
(介助者:っていうことを、楽しみを見つけていたので、高校卒業後はそっちを突き詰めていこうと思っていました。)
それは、うん、そういった専門学校を、を、まあ、ちゃんと自分なりにいろいろ、まあ、探している中で、こう。
(介助者:ただ、そういった専門学校を自分なりに探していた中で)
あの、やっぱり、もう、専門学校、専門学校で、あの、せつ、設備の問題、だったり。
(介助者:専門学校、専門学校で設備の問題だったり。)
バリア、バリアがあったりっていうので。
(介助者:バリアがあったりっていうんで。)
うん、また、そこで、あの、ちゅうちょしてしまう部分がありました。
(介助者:また、そこでちゅうちょしてしまう部分がありました。)
整っていない環境の中で、うん、な、何年、何年間も、学んで、もし、身に、身にならなかったときに、やっぱり、ちょっと大きいな。
(介助者:整っていない環境の中で、もし身にならなかったときに、ちょっと。)
大きいな。
(介助者:大きいな。)
リスクが。
(介助者:リスクが大きいな。)
という、いろいろ検討した、あの、結果、結果、大学を、に通う道を選びました。
(介助者:で、いろいろ検討した結果、大学に通うっていう道を選びました。)
インタビュー22
- 高校卒業時には、文章を書いたりカメラで映像を撮りたいと思ったが、バリアフリーでない専門学校で、満足に学べなかったら困ると思った
- 面接では最初に自分で話し、言語障害のためにうまく伝わらない部分をパソコンで入力して伝えた
- 高校受験の時に受験した高校から入学拒否に遭い、訴えるようなエネルギーもその時はなかったので、通信制の高校を選んだ(次のクリップに続く)
- 高校3年間通信制で学び、その時に自分の時間を大切にするという感覚を身に付け、これも悪くないと思って大学も通信制に決めた
- 高校で普通校に行っていた時は、周りに合わせるので精一杯だった。大学では自分で時間を作って学ぶことで、自分が興味のあることや好きなことを自覚することが出来た
- 大学以前は、健常者に合わせたカリキュラムの中で遅れたらいけないと思っていた。大学は自分で学んでいく場なので、障害のある人は自分らしさを見つめ直せると思う
- 自分の事業所のヘルパーは、指示なしでは動いてはいけないが、最初は指示の出し方もわからなかった。徐々に自分にできることが増え、実家では感じなかった満足感を感じる
- それまでは、学校でも人に負けたくないという意地があったが、障害のある他の人に会って人それぞれの頑張り方があることを知ったことで、自分自身をしっかり見つめ直せた
- スクーリングの際に会った人たちは年上が多く、自分が車椅子なので話しかけてくれるようなことがあった。年上の人から人生経験などを聞けたのが良かった
- 子どもの頃は、親も自分もひとりの時間が全く持てず、それが10代半ばくらいでだんだん辛くなり、親と離れて暮らしたいという気持ちが芽生えていった
- 当時は24時間ヘルパーをつけて一人暮らしをしている人も少なく、役所との交渉も大変だった。不動産屋で断られるととても落ち込んだが、周囲の人にとても励まされた