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インタビュー時年齢:35歳(2018年12月)
障害の内容:肢体不自由(脳性麻痺)
学校と専攻:大学・理工学部(2002年度入学)、大学院(2006年度入学)
関東地方在住の男性。脳性麻痺で自宅では介助用車椅子、外では電動車椅子を使用している。学生時代は両親と自分の3人暮らし。高校まで普通学校で、大学は理工学部に進学した。教員免許の取得を強く希望し、受け入れ可能な教育実習先を探した。卒業後は大学院に進学し、その後は、患者と医療者と社会を結ぶ社会活動に従事している。
語りの内容
まあ、大学入ったら先生の勉強してみようって思ってたんです。
――じゃあ、クラスの半分の方がもう教員免許取られるってお話だったんですけど、それよりも前から、教員免許とか教員の資格を取るっていうイメージは持ってらっしゃったんですね。
はい。
――そのお話って、周囲の方に、どのタイミングでされました? もう前からずっと、そういう、高校のときからお話しされてたんですか。
合格してからです。
――大学に。
うん。
――じゃあ入学の段階で、教育実習に行きたいとか、教員のその免許を取得するための勉強をしたいっていうことも、お話しされてたんですか。
親とか高校の先生とかには、担任とかには言ってましたね。
――大学のほうではどうでしたか。
具体的に言ったかな。あんまり大学の数学の先生たちとそういう話、具体的にした覚えはないんですけど。
――教育実習の担当の先生とも、当然その、するわけですよね、免許の話。
ああ、はいはい。ありますね、ありますね。
――その辺りで、こう周りの方の反応で、覚えてることとか、こんなふうなやり取りがあったなって、印象に残ってることがあったら教えてください。
親はね、反対しました。
――反対だったんですか。それはどういう?
あの、勉強するのはいいんだけど、「おまえ、本当に先生になれるのか」と。いや、なれるのかというか、先生として働けるのかっていうことです、要は物理的なこととか。「現実的に先生として働いていけるのか、おまえは」と。って、「そういうことおいといて、取りあえず、せっかくやりたいことが見つかったんだからやらしてよ」と言って、じゃあ取りあえずやってみようっていうことになったんですね。
――じゃあ最初は本当にその、お話ししたときに、親御さんのほうは、「働けるのか」っていう感じだったんですね。
そうそう、そっちにつながるのかっていう部分はやっぱ心配だったみたいです。
でも高校の担任は、「そうか、やっとおまえにも自我が出てきたか」と。
――ほお、「やっとおまえにも自我が出てきたか」。
うん。それまでやっぱりこう、親の言うこと聞いてるように見えたんでしょうね、うん。それだけ、すごい覚えてますね、何か。「やっとおまえにも自我が出てきたか」って言われて、「今まで自我なかったのかよ」と思ったんですけど。そんなつもりはなかったんですけど、何か、多分でも、自分一人で考えて決めた初めてのことだったと思います。
――ご自身で。
うん。
――自分で考えて決めた初めてのこと。
だったのかなって、今、思いますね。
――やっぱりそれは、すごい大きいことですよね。
やっぱりだから、高校まではやっぱ親が一緒にね、いる時間がほとんどだったので、やっぱりどっかで影響受けながら、守られながらやってきたのは間違いないと思うんです。で、自分一人で決めたっていうにもまあ、「まあ親も言ってるし、まあそれでいいかな」ぐらいの考えだったんですけど、初めて、親は違うって言うけど俺はこれをやるんだというのを言ったのが、教職を勉強するっていうことだったんです。
インタビュー01
- 大学進学を考え始めた時期は覚えていないが、小学校から地域の普通学校に通っていたので、みんなが行くから行くもんだろうと思っていた
- 専攻が数学科で、ノートテイクは専門的な知識がある人を探すのが難しかったため、友人の授業ノートをコピーするのに、教員用に準備されたコピーカードを付与してもらった
- 大学2年の終わりに母校の高校で実習をしたいと依頼した。自分が通っていた高校なので設備は問題なかったが、理由はよくわからないが、断られてしまった
- 障害者向けの説明会でも歩ける人ばかりで、面接官も車椅子の自分には素っ気なかった。それまで健常者の友達に遅れないことに自分の価値を感じていたが、初めての挫折だった
- 1学期の間を一緒に過ごすと自然と周りの友達がサポートをしてくれるようになった。ノートのコピーも、いつもの人が休んだら他の人が貸してくれて困らなかった
- 親の反対を押し切って教職を目指したことについて、高校の担任からは「やっとおまえにも自我が出てきたか」と言われた。教職は、自分で考えて決めた初めてのことだった