インタビュー時年齢:42歳(2019年10月)
障害の内容:重複障害(視覚障害(全盲)、上下肢の肢体不自由、てんかん、発話障害)
学校と専攻:大学・社会福祉系
九州地方在住の女性。未熟児で生まれ、視覚と下肢の肢体障害、てんかんがあった。また出生時から呼吸器が弱く声が出にくく、20歳頃からは発話はパソコンで行っている。高校までは視覚の特別支援学校で学び、大学は通信制に入学し、社会福祉を学んで社会福祉士の受験資格を取得した。卒業までの期間は15年ほど。32歳頃に先天性股関節不全症があることが分かり、現在は電動車椅子を使用している。
語りの内容
――大学で配慮がない状態で、ものすごく大変で、それでもご自身は勉強したいと思った、その動機というかモチベーションとかはどういったものだったかなって思われますか。
まず一つは、親に頼らなくても、普通学校に行けるっていう実績を一つでもつくりたかったです。 やっぱり意地じゃないですかね。親に対する意地。保証人は結局、親だったんで、やめようと思ったら退学届に親の印が要るんです。そうすると、親にやめたいって言わないといけない。
でもそんなことを言ったら、やっぱり無理だったんだ、みたいなふうに思われたくない。
私は卒業できても、できなくても、大学生活は勉強だけじゃなくて、社会勉強だったり、いろいろなことを学ぶ場だったり、視野を広げる場でもあったので。でもそれを結果が悪かったといって無駄だとか言われたくない、そう思ったら(そう思いながら、学生生活を続けていたら)いつの間にか、卒業証書が家に送ってきていました。
(今、親とは)お互いを尊重し合える関係だと思います。学生時代はいろいろありました。衝突もしたし、人が代読者確保に必死なのに、寝ながらテレビを見ている親を見たら、殴りたくなることも正直ありました。だって卒業かかっていますからね。その書類が書けるかどうかで。でも卒業が決まって、証書が届いたときはやっぱり親も喜んでいましたし、勝手に喜ぶなって言いましたけど。その後もう、ばかの一つ覚えみたいに、大学の賞状を親戚中に見せているところを見ると、やっぱりうれしいんだろうなって思います。
本人は恥ずかしくて、たまらないので、いいかげんにしろと言いますけど、
(私は、)障害を持った私を認めてほしいっていう思いがずっとありました。大学を出たことによって、(家族で)大卒が私だけなので、障害があっても、私は一応まともなんだ。というふうに、思われたみたいです。
インタビュー33
- 声が出にくいのでパソコンで筆談をしていたが、当時はパソコンを使うことに否定的な風潮が強かったので、面接がない入試の大学を探した(テキストのみ)
- 入学に際して大学(通信制)から、何も配慮しないがそれでもいいという誓約書を書くように言われ、送られてきたテキストも資料もすべて紙で大変だった(テキストのみ)
- 社会福祉の実習先を探したが、重複障害だとどこに行っても断られた。てんかんの施設でも、自分にてんかんがあるから露骨にだめだと言われてしまった(テキストのみ)
- 障害者が福祉の担い手を目指すと、障害があるのに偉いねという言われてしまうこともあるが、実習では福祉の専門職として見てもらえて、厳しかったが良かった(テキストのみ)
- 大学前は健常者と一緒に学んだことがなく、健常者と学んでしかも対等に評価されることがなかったが、大学で学んだことで、真の平等について考えた(テキストのみ)
- 自分が持っている価値観や文化が当たり前ではないので、そうじゃない人がいたときに、何かができない人ととらえるのではなく、文化が違うととらえてほしい(テキストのみ)
- 配慮がない中で必死に続けたのは、「やっぱり無理だった」と言われたくないという親への意地だった。卒業証書が送られてきたら、親はとても嬉しそうにしていた(テキストのみ)