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インタビュー時年齢:36歳(2019年8月)
障害の内容:内部障害(下垂体機能低下症、特発性過眠症)
学校と専攻:大学・心身障害学(2001年度入学)、大学院修士・障害児教育(2005年度入学)、大学院博士・障害科学(2008年度入学)
関東地方在住の女性。おそらく生まれた時から病気はあったが、「体が弱い」というだけで明確な診断なく育った。自分を理解したいという思いから、大学は障害を持つ人の心理や教育を中心に学び、もう少し知りたくて、その後大学院に進学した。大学院博士課程在学中の25歳の時に「下垂体機能低下症」、32歳の時に「特発性過眠症」と診断された。現在は、大学で教員をしている。
語りの内容
あ、うーんと、そうですね。高校時代から囲碁を打っていて、で、大学も囲碁部に入って、ずっとやっていたんで。まあ、大学の囲碁部ってあの関東学生囲碁リーグとか他の大学の、えー、囲碁部とその対局をするっていうような大会もあるんですね。なんで、そういったことを通じて他の大学の、まあ、学生さんとこう交流したりっていうことはありましたね。で、そうすると、また雰囲気が違ったり、自分がいた所は、その共学だったけど、その女子大さんと、うちの大学の、えーと、女子部が対局すると、また雰囲気が違ったりですとかっていうところで、同じ学生っていうくくりの中でもいろんな人がいるなっていうのは、あの、本当に思いました。
今 思えばやっぱり囲碁もいろんな世代の人と関わるツールだなって思います。そのやっている最中は、やれ関東学生リーグで勝たなきゃとかっていうことが付いて回るわけですけど、まあ他の大学と交流するっていうのもありましたし。当然町中の「碁会所(ごかいしょ)」っていうんですけど、あの、まあ、おじいちゃんなんかがよく行くイメージかもしれないんですが、あの囲碁を打つ場所に行けば当然世代の違う人とも会いますし。いっときですけど、そのお子さん、自分の子供に囲碁を教えたいから誰か相手してくれないかって言って小さい、2人のお子さん連れて来た方がいらっしゃって、えー、その子の囲碁の相手をしてた時代もあって、逆にこう、いきなりこう年齢が、まあ幼い子供たちと囲碁を打つときもあったので、何かこう、そういう、やっぱり囲碁も私にとっては何だろう、他世代と関わる場だったなって思います。
で、まあ、女性なので、女性の…まあ、学生の大会もあるんですけど、それだけじゃなくて一般の女性の大会っていうのも、えー、まあ、都道府県レベルで、大会があって全国大会があるみたいなのがあるんですけど。そういう所に行くと、あの、お強い方々がちょうどうちの母ぐらいの年だったり、今高校生ぐらいの子を育てているお母さんだったり、またちょっとこう、それまでとは違った世代の女性と関わって。まあ、孫のように、毎年、その一般の女性の大会は年1回なんですけど、あ、「今年も来たわね」なんて言って、えー、かわいがってもらったりですとか、声を掛けてもらったりっていうのも、あって。
何かこう、それも何て言うかな、例えばうちの母親だけだったら、その1つの、えー、やり取りだとちょっとこう母の理解って進まなかったかもしれないところがあって、あの、どうして…何だろう…接し方が変化していったのかとか分からない部分って、例えばあり得るんですけど。ちょっと母とは離れた世界で母に近い立場の人とか、あるいはその上下ぐらいの年代の人と話をすると、まあ全部ではないんですが、少しこう母を理解できるようになっていくところが、まあ感じられて。そういった点でも、あの、非常にこう自分にとっては意味のある出会いだったり、交流だったりしたなって思います。
インタビュー28
- 人間関係がうまくいかない経験から心理学を学ぶつもりだったが、さらに自分を考える材料をくれるかもしれないと思って、障害のある人の心理や教育を学ぶことに決めた
- 教職課程には教育実習だけでなく介護体験なども必要で、体力的にしんどかった。特別支援学校での実習には行ったが、それがかなりしんどく、その後教職をあきらめた
- 高校時代から引き続き、大学でも囲碁部に入っていた。他大学との対局や町中の碁会所、一般の大会での出会いを通じて、同じ学生でも雰囲気の違う人たちや全く世代の違う人たちと関わることができた
- 一番長く続けたのは神社の巫女(みこ)さんバイトで、体調面でコンビニよりも安心してできるんじゃないかと、親に神社に連れていかれて始めたのがきっかけだった
- 飲食店のバイトは体力勝負なところもあって自分には難しいと思った。だが、色々なバイトを経験することで、自分が生きていく場所を探せると思えるような感覚があった
- ある大学に応募した際、履歴書に病気のことを書いたら、指導教員に「難病患者に助教が務まるのか」と問い合わせが来た。それ以降、病気のことを書くのをやめた
- 授業を通じて、自分は人と違う考え方をするのかなと気づかされた。また自分自身のことは簡単には分からないということが分かったというのも、4年間の大きな気づきだった
- 母親からは、大学を選ぶ時も、一人暮らしを始めた時も心配された。だが徐々になんとかやれている様子を見て、自分が決めたことをやればいいという接し方になっていった
- 大学で障害を持っている人たちを目にしたり話を聞いたりしていなければ、医務室に時々お世話になるなど、自分が他人と違うということを受け入れていなかったかもしれない
- 直接病気や履修の相談をしたことはないが、大学にはいろんな先生がいたので、研究室を訪ねて自分が話しやすい人ってどんな人だろうと探っていたようなところはあった