インタビュー時年齢:40歳(2020年9月)
障害の内容:脊髄損傷による肢体不自由(下肢障害)・手動車椅子使用
学校と専攻:大学・工学部(1998年度入学)、大学院・応用化学(2002年度入学)

関東地方在住の男性。20歳のとき自動車事故で脊髄損傷となり、車椅子の生活になり1年休学の後、復学。成績優秀だったにもかかわらず、第一希望の研究室に入ることができず、就職活動でもいくつもの企業に断られるなど、多くの壁に直面した。現在の職場は希望する研究職で受け入れてくれ、材料分野の研究では商品化につながる成果を出すことができた。今は会社の支援を受けながら、学生時代から続けてきたスポーツでも国際大会に出場している。

語りの内容

(入院中は、)ICUとかにいたんですが、一般病棟に来て、大学時代の友人がですね、ま、いろいろこう、代わる代わるお見舞いに来てくれたんですね。「大学戻ってこいよ」と、サークル活動してたものですから「そこに戻ってこいよ」ってことをすごい言われて、俺の戻る場所はここだなっていう感じで、だからこそ、その将来、遠い将来を考えるのではなくて、半年後の将来を考えて、大学に復帰して、また元の友達と一緒にスポーツがしたいというふうに思ったというのが当時の経緯といえば経緯です。

――そのときに、戻っておいでって言われたときには、車椅子でスポーツをするということで、戻っておいでっていう意味だったんですかね。どういう意味合いでおっしゃられたのかなーと思って。

はい、いろんな意味合いがあったと思うんですけども、何だろうな。そのスポーツの中では、当時は、キャリアも長かったものですから、何だろうな。うまいほうの扱いをしていただいたってのもあって。サークルの副会長とかもやってたりして、ある種こう、真ん中でやってたほうだったんですね。っていうのと、いわゆる飲み会もですね、サークルですからありまして、盛り上げ隊長みたいなこともやってたんですね。で、何かおまえがいないと、なんか飲み会も盛り上がんないよみたいなことを、本音か、何て言いますか、励ましなのかは分からないですけど、そういうことを言っていただいてですね、「ああ、そうなの?」みたいな感じでですね、こっちとしては、じゃあ俺も行きたいなって、行かなきゃなみたいなことを思えて、というのもあったので、いろんな文脈で、サークルにいなくてはならないっていうことを言ってくれたことに対する、居場所みたいなのをですね、すごい感じて、自分はここ、戻るべき場所はここだっていうことを感じていたのかなというふうには思います。

――そのときは、競技にすぐ戻れないことについては、ご自身はどのように受け止めてらっしゃったんですか。

はい。当時2000年にですね、パラリンピックっていう雑誌が創刊されたのかなんか、8巻ぐらいで、ちょうどシドニーの年だったので、特集されてたんですね。各競技に対して、いろいろこう説明があったりとか、いろんなスポーツの団体の連絡先があったりして、そういうところで情報を得て、まあちょっと、今やりたいスポーツに対して、まあこういう、何だ。「元々これぐらいやってて、こういう経緯でけがしたんですけど、どうしたらいいですか」っていうことを聞いてですね、連絡をして、大学近くのところに障害者のスポーツのクラブがあったものですから、そこに行って情報を得て、そっちで主戦場にするというよりも、そこで得た情報を使って例えば競技をするための車椅子の情報を得たりとかして、それを、そういう情報を元に車椅子を買って、一緒に競技するとかですね、サークルで一緒にやるとか、そんなような使い方をして、自分でも、何だろうな。ある程度だったら、サークルですんでレベル高い人から、ほんとに大学から始めましたっていう人までいるものですから、そういう人相手ぐらいだったら何とかなるかなとも思って、れでやれたっていうのはよかったのかなと思います。

私は: です。

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