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インタビュー時年齢:23歳(2019年3月)
障害の内容:肢体不自由(第8腰椎骨折による両下肢機能障害)
学校と専攻:大学・看護学科(2013年度入学)
関東地方在住の男性。九州から関東に上京し大学生活を送っていたが、3年生の夏に北海道でバイク事故に遭い、脊髄を損傷して手動車椅子を使う生活になった。復学後の看護実習は、専属の教員についてもらって行った。就職活動では内定をもらえずに辛い時期もあったが、病院に看護職として採用され4月から働き始める。
語りの内容
(バイクの事故で、休学している時から)両親が、僕が入院してるときに、やっぱ僕がその看護を続けたいって言っていた思いを酌んでくれて、あの学校のほうの学科長に直接談義をしてくれてたんで…、そうです。で、最初は大学の先生たち側からは、いや、もう難しいから転科をしたほうがいいと。ちょっとさすがに車椅子で実習は…、っていう話だったんです。
ただ、まあ、父が、僕がすごいやる気があるってことと、あと、看護師免許の剥奪というか、駄目な理由には肢体まひは書いていない(※)っていうのを言ってくださって。
確かに、知覚、知覚まひ系の、あの、目が見えない、耳聞こえないとかはあるけど、手足が使えないことに対しての文言は書いてないっていうことを言ってくださって、で、先生が、じゃあ、こちら側でもできるだけ頑張って配慮をしながら考えてみますっていうことで、その次の年ですね、けがした次の年、僕1個留年、休学して1個下の学年から入ることになったんですけど、そこで、入る(復学する)ことになりました。
で、やっぱり、大学側も…、初めての経験で、学科、学科長の先生方もやっぱ初めてだ、もうちょっと、だから、どうしていいかがちょっとまだお互いこう分かってないような感じだったんですけど。
その中でも、やっぱ先生たちもいろいろと考えてくださって、あの、実習、僕実習前にけがしたんで実習からスタートっていうかたちだったんですけど、実習のときに別の先生を1人もう専門で付けてくださいまして、その先生に、が、ずっと付いている状態で、いろいろと患者さんと関わったりケアをしたりっていうことで、僕ができないところだけを、ずっと付いてくださっている先生が少し補助をするっていうかたちで、実習のほうはさせていただきました…。
実習中も、なんで、記録とかは、もう全部自分でやっぱしっかりやらないといけないし、看護過程(患者さんの病態や生活を理解するための考え方)やっぱりやらないといけない、全部自分でやらないといけない、やっぱ寝る時間も少ないしきついなって思うことがあったり。
あとは、そうですね、ずっと付いてくれてた先生がやっぱずっと一緒にいるんで、ちょっと、この人、こう嫌だなとか思うこともあったりはしたんですけど、でも、その先生が付いてくださってたおかげで僕も、すごくいい実習ができまして、で、全部の実習をこなしました……。ですね。
まあ、実習中…、というか日常生活でもなんですけど……、排便のことがやっぱりすごく一番ネックになってて、多分他の脊髄損傷の方とかでも、あの排便の悩みっていうのはすごく大きいとは思うんですけど、その実習中に漏れたらどうしようとか、何かそういうのがいろいろあって。実際に、2回、1回か2回だけ漏れたんです。で、一応でも、その話も、その専門っていうか、ずっと担当で付いてくれてた先生には漏れるかもしれないってことは伝えてあったので、漏れたときには自分で。僕は自分で片付けがちょっとできるぐらいの残存能力があるんで、自分でちょっと片付けるときに、ちょっと、すみません、抜けますって言って実習抜けて片付けとかはしてたんですけど。
まあ、そういった、先生たちのサポートがやっぱりしっかりとあったおかげで、在学中も特にこう…、そうですね、困ったなっていうのが特になく過ごすことができました…。
※2001年まで医療職の関連法規には、「目が見えない者,耳がきこえない者または口がきけない者には免許を与えない」という絶対的欠格事由が定められていました。現在も依然として、「心身の障害により業務を適正に行うことができない」者には、「免許を与えないことがある」という表記が残っています。
インタビュー12
- 実習では自分に一人教員を付けてもらった。車椅子でも特に困ったことがなく過ごせたが、病院の受け入れ先があったのは、系列病院がたくさんあったおかげだとも思う
- 実習中は自分が出来ないことが多くて申し訳ないと思うことも多かったが、ある患者さんにパンフレットを作成したら良い反応をもらえて、それはとても印象に残っている
- 面接では「車椅子で何ができるか」という話から始まったが、率直にできることとできないことを話し、患者さんに関われるなら事務職でもいいと伝えたが、看護職で採用された
- 看護師資格を取ることがゴールではないと思っていた。車椅子でも自分にできることを積極的に発信し続けた結果、相談した人からの推薦で就職が決まった
- もともと災害時の看護に関心があり、卒業研究では自分と同じ脊髄損傷の人の災害時の不安や困難について取り組んだ。当事者でないと分からないことがあると思いながら進めた
- 障害があると誰かの手を借りなくてはいけないことが絶対にあるが、そういう時も、卑屈にならないようにしている。「ごめんなさい」よりも、「ありがとう」と言っていたい
- 他の脊髄損傷の人からは、気持ちの面で支えられたり、困った時に情報を教えてもらったりすることもあるが、みんなが同じではないので、自分に重要なところを活かしている
- 大学では、強いて言うなら先生たちに大事にされすぎたようにも感じている。「車椅子」のイメージがあるので仕方ないかもしれないが、正直そこまでしなくていいと思うこともあった