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インタビュー時年齢:29歳(2019年5月)
障害の内容:聴覚障害(難聴)
学校と専攻:大学・人間科学部(2008年度入学)
首都圏在住の女性。小学校2年生で難聴と診断された。高校までは九州地方で、両親と妹二人の5人家族で育った。大学入学を機に上京し、初めて聞こえない人と交流して手話を覚えた。大学ではライフセービングに熱中した。大学卒業後、専門学校で言語聴覚士の資格を取り、現在は大学で障害学生支援の仕事をしている。夫と息子と3人暮らし。
語りの内容
(言語聴覚士の資格を取るための)実 習6カ所行ったので行った順にお話をすると、まず1カ所目が、総合病院で。そこは結構、人工内耳の手術もたくさんやっていて、聴覚系では有名な所なんですけど、そこの耳鼻科に行かせてもらって。で、人工内耳の患者さんたちを主に相手に検査をしたり、いろいろお話を聞いたり。あと、週に2回補聴器のフィッティングとかもやっているので、それにも、ちょっと見学させてもらったりとかして。
ただ、やっぱり一方で、先生、まあ聴覚のスペシャリストから見ると、私がいかにこう自分の聞こえをきちんと分かっていないのかっていうのが、すごくあって。
というのも実習が始まる前に、私の聞こえについて教えてくださいって先生から、まあ、連絡があって。それに対して私は自分のオージオグラムを、1枚ぺらっとお送りするだけで終わってしまっていて、「それじゃあ、何も分からないわよ」って言われて。
聴力を見れば、大体こんな聞こえでとか、そういう想像はできるけれども、そんなの1枚渡されたところで、これから自分がそういう聞こえのスペシャリストになるのに、どういう、やつなんだろうみたいに先生方は思ってたらしくて。
だから、まずそこの病院の耳鼻科では、その自分の聞こえと向き合うっていう作業もさせてもらっていて。まあ、「今日の○(インタビュイーの名前)」っていう題目で、例えば今日は自分の聴力検査を、自分の聴力を測るとか、今日は、語音明瞭、言葉の聞き取りがどれくらい今できているのかを知るとか。あるいは、補聴器をいろいろ試させてもらって、どういうふうに調整したら、どういうふうに聞こえてとか。
そういう本当に細かいことまでいろいろとやらせてもらって、自分の聞こえってこんなふうなんだとか、そういうのを(やって)最後に自分の「聞こえの紹介状」を作れるっていうところまで持っていくっていうのが、「今日の○(インタビュイーの名前)」の目標で。
で、最終的には…、そういう聞こえの紹介状を作って、次から実習でお世話になる、STの先生に、見せなさいとか。今度から、もしかしてまたどっかの病院の耳鼻科にかかるときには、それを見せたらいいじゃないとか。まあ、そういうふうに、もう本当に、もうこれ以上書くことがないっていうぐらい、自分の聞こえについてばっとまとめたものを、が作れるぐらいに、勉強をさせてもらいました。それが一番大きな転機だったなと思っていて。
インタビュー19
- 中学のとき初めて言語聴覚士の人に会った。それまで自分に能力がなくてできないのか聞こえなくてできないのか分からなかったが、その人と話し、心が軽くなった
- 聴覚障害があるが、高校まで普通学校で、配慮や支援について何も知らなかった。センター入試で初めて配慮のことを知って申請し、個別の試験でも別室受験などの配慮を受けた
- 入学後は配慮なしで授業を受けるものだと思っていたが、たまたま入学手続きの書類の中に障害学生支援室のパンフレットを見つけ、母親が問い合わせて、大学側と面接をした
- ノートテイクは自分が申請した授業に全てついた。支援者は基本的に2名だが、ゼミで両側から支援者に挟まれるとゼミ生と壁ができるので、場所を工夫した
- 実習は全部で6カ所回った。最初に行った総合病院の耳鼻科では、自分の聴力検査をしたり、補聴器を試したりして、自分の「聞こえの紹介状」を作れるほど様々な体験をした(音声のみ)
- ライフセービングに熱中し、夏は毎日海水浴場の監視活動、それ以外の時期も毎週末練習で海に行っていた。トランシーバーでのやりとりは難しかったが、できる範囲で頑張った
- 最近は支援体制が整いつつあるが、支援があるだけでは自分の能力は発揮できないので、用意された支援で満足せずに、自分に必要な支援を伝えていってほしい
- 周囲から「○○さんは聞こえるし話せる」と見られることもあり、自分は聴覚障害のイメージから離れていると思う。だが自分も困ることはあり、個として見てほしいと感じる
- 大学に入って、手話を覚えたことは衝撃的だった。また、自分と同じような境遇の、聞こえる人たちの中で育った聞こえない人に会えて、自分だけではないと思い、嬉しかった