※写真をクリックすると、動画の再生が始まります。
インタビュー時年齢:30歳(2020年12月)
障害の内容:視覚障害(弱視)
学校と専攻:大学・工学部(2012年度入学)、大学院・都市交通工学(2014年度入学)
首都圏在住の男性。先天性の網膜疾患で右目は視力ゼロ、左目は0.07程度。小・中学校時代は普通学級で学び、将来的にバリアフリーに関する仕事に就きたいと考え、工業高等専門学校に進学。さらに編入試験を受けて大学に進んで土木工学を学び、大学院で修士号を取得した。就職ではIT系企業の総合職として採用され、現在はITを使って誰にでも住みやすいまちを作る仕事に従事している。
語りの内容
留学したことで、先ほども申し上げたように、ほんとにすごく胸の中に抱えていたマイナスな部分を全て外に発散することができたかなと思っています。何か特別扱いされるでもなく、ほんとに普通に他の人と同じような環境で生活することができて。その中で困ったことがあったときにはすぐに、当たり前のように助けてもらえて、うん。というような、環境だったので、ほんとに自分が、障害を持っているっていうことに対して何も思わなくなったっていうのが大きかったですね。
――何も思わなくなったっていう、そこのところ、ちょっともう少し分かりやすく説明していただけますでしょうか。
やっぱり障害を持ってるっていうことで、やっぱそれが、それ自体がコンプレックスに、当時は思っていましたし。「それによって誰かに迷惑を掛けてしまうな」とか、「自分はこういうことができないから、今後どうしようかな」とか、あとは周りとの違うということを、に対して、なかなか受け入れられないであるとか、いろんな感情ってのがあったんですけど。
アメリカに移ってからは、ある種これが自分の個性の一つなんだろうなっていうふうに思うようにもなりましたし。障害はあるけれども、でも別に、だからといって何かマイナスになることもなく、好きなこととか、やりたいと思ったことは、まずやってみればいいじゃんっていうような感情になることができたので。障害があることで、それが壁になってしまうとか、自分自身の選択をこう、留めてしまうとかっていうことが、留学したことでなくなったっていうふうに思ってます。
――ありがとうございます。戻ってこられて、また高専で何年間か勉強されたんだと思うんですけど。
はい。
――そのときは、やっぱり、でも先生方は変わらないですよね。
そうですね。
――どうでしたか、それに関して。ご自身は、もう少し発言の仕方が変わるとかってのがあったんでしょうか。
そうですね。なので、僕のほうから、「いや、もうこの配慮は大丈夫ですよ」とか、「これはこういうときに、こういうことしてください」とか、「でも基本的に僕から言うので、そのときにやってください」っていう、何ていうんですかね。受け身の配慮ではなくて、こっちから配慮してほしいときに発信をするような形に変えましたね。
理工系インタビュー10
- IT技術を応用してすべての人に住みやすいスマートシティの開発に携わっているが、当事者だからこそ、使ってもらう側の気持ちに寄り添うことができるのではないかと思う
- 入社当初は目がよく見えないのに、現場で実機を触りながら大規模なシステムを組み上げる仕事で苦労した。上司と相談して設計や企画などオフィスでの業務に変えてもらった
- 障害者雇用には総合職ではない簡単な仕事を任せる雇用と、障害者枠でも総合職として他の人と同じように働いてもらうという雇用があると思っていて、自分は後者を探していた
- 就活では最初は専門である土木系の会社を回っていたが、目が悪いというだけで門前払いされた。会社の中には様々な仕事があるのに初めから排除するのは何か違うと思う
- 講義では単眼鏡だが、製図の時は両手がふさがるのでメガネに虫眼鏡を埋め込んだものを使った。実験や測量は、できるところまでやり、できないところは記録係に回るなどした(NEW)
- 高専に入ってから学校側がものすごく手厚く配慮してくれて、逆に周りと違う扱いを受けたことで差別感を抱いた。自分に対してネガティブになる感覚を変えたくて留学を決めた
- 留学先の学校のクラスでは、とてもフランクに受け止められた。日本では配慮が手厚く、できることを奪われる経験も多かったが、できないときに助けてくれる環境は嬉しかった(NEW)
- アルバイトの採用は苦労したが、障害を理解した上で雇ってくれたラーメン屋で接客をした。就活では、バイトの実績が裏付けになって「障害があってもできます」と伝えられた(NEW)
- 留学して、自分が障害をもっていることを何とも思わなくなり、自分の胸に抱えていたマイナスな部分を発散できた。帰国後は自分から、配慮を断るようなこともした(NEW)
- 高校進学の際、進学を考えた高校は配慮に後ろ向きだったが、高専は前向きだった。当事者ならではのバリアフリーな街作りに関心があり、高専を選び、その後大学に編入学した(NEW)