障害の内容:肢体不自由(脳性麻痺)
学校:大学
首都圏在住の女性。脳性麻痺による肢体不自由(四肢体幹機能障害)で、電動車椅子を使用。障害のない子と同じように育てたいという親の方針があり、小中高と普通学校に通い、大学はパソコンを学べる学部に進学した。大学時代は、友人との他愛ない日常生活が、本当に楽しかった思い出がある。卒業を機に実家から出る準備を始め、現在は24時間ヘルパーを付けて一人暮らしをしている。
語りの内容
ゼミに属するっていうのは、大学と唯一、うーんと、もめたのがそこで、もともと入ろうと思っている、思っていた研究室が実験が多かったんですよ。で、その実験をおまえはできるのかって言われて、お母さんが(介助を)するにしても専門的な知識がないと難しいから、このゼミじゃないほうがいいんじゃないかっていうところで。うーん。
分かりやすく言ってしまうと(自分は)パソコンのハードのほうに興味があったんですけど、内部のこと、対応するプログラミングとかなどは、1人でできることが多いので、まあ、そっちでもいいかという感じで、プログラムのほうに転向して。本当はパソコンを組むとか…、そっちのほうがしたかったんですけど、まあ、そっちでもいいかっていうふうに思いました。
まあ、悔しいのは悔しかったり…、何でできないんだろう…、もうちょっと、考えてくれたらいいのになっていうのは、もちろん思いました。
思いましたが、じゃあ具体的にどういう方法で、大学は考えているかっていうのは、私の中には当時はなくて、今関わっている(障害のある当事者の)人たちの中には、(周囲への働きかけなど)そういうことに詳しい方々はいますけど、(当時は)そういう人とも関わりがなかったので、まあ、そういうものなんだろうなって思ってました。
今であれば、それはちゃんと配慮を求められるんだよっていうことを知ってはいるので、すごいもったいないなと思って、思うことたくさんあるし…、こんな知識があればなっていうこともたくさん思っていたんだろうけれども、多分それを全部苦労せずにクリアしていたら、私はこのインタビューには多分答えてないですよね。
だって、それは苦労せずに成功したから当たり前だと思うっていう、思っちゃってたと思うんです。今こう、交流のある(障害のある)方々に、こういう配慮が受けられるんだよって言われても、それはそうだよね、当然だよねで終わっていると思うんです…。
(当時できなくて)悔しい思いをしたからこそ、こうやって皆さんに、これをお伝えしたいとか、あれがやりたいとかいうもののきっかけにはなったかなというふうに思います
インタビュー16
- 内申点は全ての科目の平均点なので、車椅子の自分は体育がネックだった。結局、体育は履修の権利を放棄して、推薦をもらった(テキストのみ)
- 自分は脳性まひの障害者で介助が必要で、いずれ福祉とはかかわらざるを得ないと思っていたので、大学は全然関係なく好きなことをしようと思った(テキストのみ)
- 実は行きたい大学があったが、当時は通学にヘルパーが認められておらず、親が送り迎えできる範囲で大学を選んだ(テキストのみ)
- 入ろうと思っていた研究室は実験が多く、実験をできるのか、母親が介助をするにしても専門的な知識がないと難しいと言われ、一人でできることに転向した(テキストのみ)
- 試験の変更やノートテイクをつけてもらったが、それ以外日ごろのことは友人にやってもらっていた。「大人に守られない自分」を満喫できた4年間だった(テキストのみ)
- とにかく無理しないでいいよと伝えたい。自分の思う通りに、勉強するなり遊ぶなりして、苦しくないように過ごせばいいのではないかと思う(テキストのみ)
- 当時は大学の中で介助者をつけるという発想がなかったので、友達に頼みながら自分でするのが自然だった。頼む時は、一人に依存しすぎないことを心がけていた(テキストのみ)
- 10人くらいでトランプをするようなこともあり、大人が介在しない場を心から楽しんだ。小さなことが楽しいと思えたのは、障害学生ならではかなと思っている(テキストのみ)
- 大学卒業後に一人暮らしを始めたが、「めちゃくちゃ生きている」と実感する。身内に面倒を見てもらったり、施設に入ったりしていたのでは得難い感覚だ(テキストのみ)