インタビュー時:50歳(2010年4月)
関係:妻(夫を介護)
診断時:夫58歳(インタビュー本人02)、妻48歳
2008年に夫が若年性アルツハイマー型認知症と診断を受けた。夫婦・息子2人の4人暮らし。フルタイムで仕事をしている介護者は生活の中に様々な工夫を取り入れて、夫が日中、自宅で過ごせるようにしている。また、診断後、若年認知症家族会に連絡をとり、情報や精神的支援を受けてきた。夫は家族会のボランティアに参加(週1~2回)し、働く場があることを喜んでいる。
プロフィール詳細
A.O.さんは、首都圏の寺町で若年性認知症の夫と愛犬、離れに住む息子2人と暮らしている。息子たちは成人しており、亡くなった前妻の子どもである。A.O.さん夫婦は共働きであったが、夫の退職後もA.O.さんはフルタイムで仕事を続けている。将来、病状が進むことがあれば勤務時間を減らし、一緒にいる時間を増やしたいと考えている。
「最近もの忘れが激しい」と、夫の異変に最初に気付いたのは夫の同僚であった。もの忘れや置き忘れがあっても58歳という年相応であり、A.O.さんは特別なこととは捉えていなかった。2008年7月、受診した市民病院では、「中等度の若年認知症」との告知を受ける(長谷川式簡易知能評価スケール:16点)。その後セカンドオピニオンを受けた大学病院の専門外来では、軽度(長谷川式簡易知能評価スケール:23点)と診断される。
A.O.さんは告知を受けて、心の準備がなかっただけに、夫の将来や子どもたちのこと、自分の行く末のことを考え途方に暮れ、1か月近く食事も喉を通らず、うつ状態のようになった。以前、テレビのドキュメンタリーで見た若年認知症の家族会の会長に連絡をとり、本人とともに面談をお願いした。1~2時間の面談を通して、たくさんの人を見ているからこそ言えるアドバイスや今の状態を判断してもらえたことが、落ち着きを取り戻すきっかけとなった。家族会では同じ病気の人やそのご家族と出会い、参考になる話を伺ったり、その温かさに癒されたりとずいぶん助けられている。悩んだときに籠るのでなく多くの人に話を聞くことで、逆に道が開かれていくことを学んだ。
診断から2年になるが、長谷川式簡易知能評価スケールも23~24点と、さほど悪化していない。日常生活の中にさまざまな工夫を取り入れている。夫がパニックにならないように、そしてA.O.さん自身もイライラしないようにと考えたものがほとんどである。毎日、メモリーノートと呼んでいる交換日記をつけている。犬の散歩や何と何を買ってきて欲しいなど、その日にしてもらいたいことをいくつか書きだしておき、夫は終わったものにレ点チェックをつけていく。また、夫の通院や家族会でのボランティアのない日には、最寄り駅まで車で送ってもらっている。擬似通勤することで、生活に規則正しいリズムが生まれるようにと考えてのことだ。
週1,2回の家族会のボランティアの日は、A.O.さんが家族会の事務所まで夫を送り届け、帰りには最寄りのJR駅まで、家族会の方に送ってもらっている。人とふれ合い、役に立っている実感からか、帰り道にかけてくる携帯電話の夫の声は明るく張りがある。働く場を生み出すことが、若年性認知症の進行を遅らせるのに役立つことを感じており、こうした場がもっと増えることを願っている。
生活のペースがようやくすこしずつ出来てきたのが、診断から1年ほど経った頃。最初は何かすべて変わってしまったように感じたが、本質は何も変わっていないのがようやく見えてきた。夫の存在自体が大切であり、先々を心配するより、楽しいと思える時間を少しでも多く積み重ねていけたらと考えている。
「最近もの忘れが激しい」と、夫の異変に最初に気付いたのは夫の同僚であった。もの忘れや置き忘れがあっても58歳という年相応であり、A.O.さんは特別なこととは捉えていなかった。2008年7月、受診した市民病院では、「中等度の若年認知症」との告知を受ける(長谷川式簡易知能評価スケール:16点)。その後セカンドオピニオンを受けた大学病院の専門外来では、軽度(長谷川式簡易知能評価スケール:23点)と診断される。
A.O.さんは告知を受けて、心の準備がなかっただけに、夫の将来や子どもたちのこと、自分の行く末のことを考え途方に暮れ、1か月近く食事も喉を通らず、うつ状態のようになった。以前、テレビのドキュメンタリーで見た若年認知症の家族会の会長に連絡をとり、本人とともに面談をお願いした。1~2時間の面談を通して、たくさんの人を見ているからこそ言えるアドバイスや今の状態を判断してもらえたことが、落ち着きを取り戻すきっかけとなった。家族会では同じ病気の人やそのご家族と出会い、参考になる話を伺ったり、その温かさに癒されたりとずいぶん助けられている。悩んだときに籠るのでなく多くの人に話を聞くことで、逆に道が開かれていくことを学んだ。
診断から2年になるが、長谷川式簡易知能評価スケールも23~24点と、さほど悪化していない。日常生活の中にさまざまな工夫を取り入れている。夫がパニックにならないように、そしてA.O.さん自身もイライラしないようにと考えたものがほとんどである。毎日、メモリーノートと呼んでいる交換日記をつけている。犬の散歩や何と何を買ってきて欲しいなど、その日にしてもらいたいことをいくつか書きだしておき、夫は終わったものにレ点チェックをつけていく。また、夫の通院や家族会でのボランティアのない日には、最寄り駅まで車で送ってもらっている。擬似通勤することで、生活に規則正しいリズムが生まれるようにと考えてのことだ。
週1,2回の家族会のボランティアの日は、A.O.さんが家族会の事務所まで夫を送り届け、帰りには最寄りのJR駅まで、家族会の方に送ってもらっている。人とふれ合い、役に立っている実感からか、帰り道にかけてくる携帯電話の夫の声は明るく張りがある。働く場を生み出すことが、若年性認知症の進行を遅らせるのに役立つことを感じており、こうした場がもっと増えることを願っている。
生活のペースがようやくすこしずつ出来てきたのが、診断から1年ほど経った頃。最初は何かすべて変わってしまったように感じたが、本質は何も変わっていないのがようやく見えてきた。夫の存在自体が大切であり、先々を心配するより、楽しいと思える時間を少しでも多く積み重ねていけたらと考えている。
インタビュー家族03
- 何かいろいろあった気はするが、認知症とはとらえていなかった。夫はよく置き忘れをしたが、それは普通の人もやることなので気にしていなかった(音声のみ)
- 夫は会社の人から忘れっぽくおかしいので受診したほうがいいと言われ、健康保険組合から心療内科を紹介してもらった(音声のみ)
- 市立病院で聞いた診断が受け止められず、専門外来に行った。診断に違いがあり、設備やメンタル面のサポートにも、病院間で差があるため、2カ所を使い分けて通院している(音声のみ)
- 合わない人もいるらしいが、特に副作用はなかった。やめたら悪くなるのではないかと思って怖かった(音声のみ)
- 夫が待ち合わせ場所を間違えたり、財布や定期入れを置き忘れたりするのに、初めはイライラしたが、今はメモを渡したり物を置くトレイを用意したりして対処している(音声のみ)
- 夫は退職後も擬似通勤を続けることで、規則正しい生活を維持できている。通勤途上で出会う人たちや車窓から見える山の姿も活力を与えているようだ (音声のみ)
- テレビで知った家族会の会長さんに夫と一緒に会いに行ったところ、会話も成立するので日々の生活を楽しむことを考えては?と言われ、すごく気持ちが落ち着いた(音声のみ)
- 家族会に夫婦で参加している人たちは健常な夫婦よりいい夫婦に見え、自分たちもそうなりたいと思った。家族としてどう生きていくかということを先輩から学べる(音声のみ)
- 夫の病気のことは、職場でもわかってもらっているし、友人や親戚にも、言って大丈夫な人には話している。変に隠さない方がサポートしてもらえるし、気が楽である(音声のみ)
- 最初の診断を受けたのが59歳だった。配置転換で作業的な仕事になったが、新しい職場では、みんなが助けてくれて定年まで全うすることができた(音声のみ)
- 家族会で働いて帰ってくるときは、携帯電話の声が明るく張りがある。できる能力を活かした就労の場があれば、進行を1日でも遅らすことが出来るのではないかと思う(音声のみ)
- 夫が若年性認知症と聞き、まさかと思った。食事もとれず、うつっぽくなった。3カ月くらい辛い時期が続き、1年くらいかかったが、いろんな出会いがあり、落ち着いた(音声のみ)